6. 身勝手な想い

 シャワーを浴びたばかりの手で香水の瓶を手に取りかけたマリアベルは、直前でそれを思いとどまった。非力ではあるが無知ではないと自覚する以上は、これから不法侵入をするのに香水をつけることがどれほど馬鹿らしいことか理解している。最近はあまり見かけないホワイトムスクの香水は、娘が買ってくれたものだった。

 「ねぇママ、ママにはこれがいいと思うの。だってほら、知的な感じがするでしょう? そういうのって大事だわ。クールなのよ」と、精いっぱい背伸びした言い回しで娘は主張した。ませた言い方が鼻につくことも多いが、親としてはそれも可愛いものである。


 思えば身勝手な親だったと思う。昔も今も。

 愛し合った二人は、良くも悪くも自分の「正義」に忠実だった。美辞麗句を並べて、娘をこの世界に生み出した。そしてそれが維持できないとわかると、今度は被害者のように嘆きながら、互いの正義を振りかざした。

 マリアベルは娘のエストレが人間であることを望んだ。しかしそれが娘自身の意思を尊重したのかと問われると、彼女の中の良心が首を傾げる。偶然に娘と意見が一致した。それが正しい見解だろう。もし逆の意見を持っていたのならば、娘の意思など考慮せずにアンドロイド化への道を作っていたはずだ。「自分こそが正しい」という信念のもとに。


 何にせよ仮定の話は意味がない。マリアベルは娘に人間として生きてほしいと願っていた。夫との関係は日々悪化している。夫は大企業の社長で野心家である。そのうち「決定的な一撃」を叩きつけるだろう。一介の技術屋に過ぎないマリアベルにあるのは、義父から引き継いだ情熱と、娘を生んだ時に存在に気が付いたアセストン・ネットワーク、そして博打の才能ぐらいである。ならば全て使うしかなかった。


「足らないのよ」


 まだ足らない。娘を人間にするには、歯車が足らない。

 歯車には特別も欠陥も許されない。全てが等しく価値を持ち、全てがその役割を果たしてこそ、美しき機関は完成する。


「そのためにはカラス弐号が必要なの」


 父親が命を燃やして全てを捨てて作り上げた最高傑作。

 マリアベルは今、同じ領域に至ろうとしていた。全てを賭けて、全てを注いで、美しき歯車機構を作り出すことを望んでいた。

 アンティキティラ島の機械のように、例えパーツが欠けても誰かが補充せんと望むような最高傑作を。


「賭けはシンプルなのが一番よ。負けた時にも笑えるわ」


 バスルームから出て、用意していた黒い服を手に取る。たかが布製のそれが、今日はやけに重く感じた。

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