5. 冷たい床
家に帰ってまずしたことは、水を飲むことだった。神経質なまでに磨かれたグラスに水を注ぎ、まずは一杯飲みほした。そして二杯目の途中で吐き気を覚えてキッチンの床にしゃがみこんだ。手に持ったままのグラスから水が僅かにこぼれて床に落ちる。
「アンジー?」
その気配に気が付いたのか、奥の部屋の扉が開く音がした。部屋の中にあるサーバのファンが回る、どこか間抜けな音も一緒に流れ込む。
キッチンまでやってきた男は、カウンターから身を乗り出してスラッグを見つけたようだった。特に慌てる様子もなく、少し欠伸混じりの声を投げかける。
「どうした、坊や? ねんねにはまだ早いぞ」
「気持ち悪い」
「昼間から酒でも飲んだのか」
「違います」
顔を上げるのも億劫だった。床の上の水に右手の指を置いて、無意味な曲線を引き延ばす。
「この傍聴装置は僕には合いません」
「悪かったよ。あれしか手元になかったんだ」
カウンターを回り込んで、パロットがすぐ傍に膝を付く。そしてまるで子供相手にするようにスラッグの頭を両手で優しく抱え、指先で髪を梳くように撫でた。
「仕事は今日の夜だろう? 大丈夫か?」
「少し休めば回復します。仕事には影響はない」
「無理はしないほうがいい」
「でも行かないと、パロットが欲しいものが手に入らない」
笑う声が聞こえた。そして手がスラッグの右耳を緩くなぞり、そこに装着されていた傍聴用の装置を抜き取った。漸く耳が解放されたような感触に、スラッグは体を震わせて息を吐く。
情報屋でもありビジネスパートナーでもあるパロットは、偶にこうして傍聴用の機械をスラッグに装着させる。盗聴や乗っ取りを避けるために使い捨てのものを使うのだが、そういったものは電磁波の影響が強く出てしまうものもあり、スラッグにはあまり合わないこともあった。
「アセストン・ネットワークか。前からダークウェブあたりで存在は認識していたが、あくまで都市伝説だと思っていたからな。それが実在して、しかも使いこなす人間がいるとなれば話は別だ。俺はその情報が欲しい」
「それを手に入れて、どうするんですか? 情報屋としてこれ以上の地位を?」
「お前が気にすることじゃない。俺は欲しいものは欲しいし、要らないものは要らない。カラスと一緒さ。欲しいもののためならクルミを車の前に放り出す」
「僕はクルミですか」
「いいや、お前は大事なパートナーだよ」
スラッグは先ほどよりも床との距離が近くなっているのに気が付いた。いつの間にか傾いていた体を、もう引き起こすことも面倒だった。ひやりとした床の温度と、髪をなでる手の温度の狭間で、脳は形を失って溶けていく。
「寝るなら部屋で寝ろよ」
「面倒なのでいいです」
「お前がそこで寝たら、俺はどこでポーチドエッグを作ればいいんだ? ただのトーストで一夜を過ごすのは御免だぜ」
そんな文句を子守唄に、スラッグは目を閉じた。脳裏にはなぜかマリアベルが、歯車を回している姿がちらついていた。
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