3. 蒼穹の下で
台風が過ぎ去って、空は美しく晴れ渡っていた。足元の水たまりに複写された青色を、スラッグはわざと踏みつける。その僅かな音は周囲の歓声に掻き消された。傍らの背の低い壁の向こうには、青々とした芝生を敷き詰めたコートが広がっていて、その中を体格の良い男が太い足を交互に出して走っている。今の歓声はその男が生み出したもののようだった。
「どうですか、試合は」
コートの周りを覆うように展開する観客席。そのうちの一つに腰を下ろした女を見つけたスラッグはそう言った。安っぽい樹脂製の椅子の上で足を優雅に組んだマリアベルは、目に当てていたカード型の双眼鏡を指の動きだけで閉じる。
「あまり悪くはないプレイね。ラウンドボールには詳しくないけど、オーバーとスクラッチ役がいい動きをしているわ」
「最近はオーバーって言わないんですよ」
スラッグはその左隣に腰を下ろす。二人のいる辺りはコートが見えにくいので客は少ない。試合のアナウンスと歓声に程よく会話が混じりあう。聞かれたくない話をするには都合のよい場所だった。
「こういう場所を指定するとは思わなかったわ」
「洒落たバーやレストランよりは上等でしょう」
「想像しただけで寒気がするわ。ところで、お金をまだ引き出していないようだけど? 今日はお断りの連絡をしに来たのかしら」
「二日くらいは待つのが年上の甲斐性というものでしょう。こちらもいろいろと都合があるんですよ。同居人のご機嫌取りとか」
肩を竦めてみせたスラッグに、マリアベルは驚いた表情を浮かべた。
「あら、意外ね。貴方はてっきり、椅子を相手にお喋りしているタイプかと思っていたわ。ご機嫌取りにスープとパンをベッドまで運んだってわけね?」
「期待を裏切るようで申し訳ないですが、相手は仕事の相棒です」
恋人やその類ではないことを、スラッグは端的な表現で説明した。世の中にはビジネスパートナーと恋愛関係に至る者もいるし、性別を問わない者も多いが、スラッグは生憎とそのどちらでもなかった。
「昔は交換屋だったんですが、怪我が原因で情報屋に転向したんですよ」
「よく聞く話だわ」
「えぇ、僕も同意見です」
試合は先ほどの盛り上がりが収まり、今は淡々と進んでいるようだった。宙に両チームの得点数と、現在の進行状況が投影されている。スラッグがそちらに視線を向けると、丁度映像が宣伝用動画に切り替わる。スポンサーとなっている企業が提供しているもので、どこで売っているのかもよくわからないアルコールを、どこで売れているかわからない俳優が飲んでいた。
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「そんなわけで、まだ契約金は受け取っていません」
「随分と大変だったようね。でも仕事は受けるのでしょう?」
「そのつもりですが、一つだけ条件を追加して良いですか?」
マリアベルが姿勢を正す。明るい翡翠のような目に警戒が浮かんでいた。
「何かしら」
それでも声は平素と変わらない。大した女性だと、スラッグは素直に感嘆した。
ただの裏情勢に詳しい技術屋かと思っていたが、並みの男では歯が立たぬくらいに度胸が座っている。彼女は自分に「武力」がないこと、そして相手にそれが悟られていることなど百も承知に違いなかった。そして、そのうえでなお強気の態度を崩さない。生半可な連中が虚勢を張るのを、スラッグは幾度となく見てきた。だがそれはあくまで、自分を強く見せようとするものである。マリアベルのはそれと一線を画している。
「大したことではないですよ。今回貴女は侵入経路の確保を僕に申し出た。その情報をパロット……僕の同居人に共有することを許していただけませんか」
「妙な条件ね。何のために?」
「僕は知りません。パロットがそうしなきゃ機嫌を直さないと言うんです」
マリアベルはその答えで納得しなかったらしく、首を傾げた。
「教えるのは構わない。女子生徒の交換日記よりもオープンな内容だもの。でも交換日記に関係のない人がそれを見るのは不自然じゃない?」
「鍵を掛けなければ誰でも見れますよ。見ないのは興味がないか、あるいは礼儀に過ぎない」
「貴方の同居人はどちらかしら?」
「興味があるんでしょう。僕の知ったことではないですが、彼が必要だというなら叶えてやりたい」
「叶えなきゃいけない、の誤りではなく?」
核心を突くような問いに、スラッグは顔をしかめた。マスクに覆われていてもそれとわかるほど唇を剥き、遠慮のない殺意を相手へ向ける。
「貴女こそ、人の日記を暴くような真似はやめてほしいですね。ページの間にネズミ捕りがないとも限りませんよ」
「こんな挑発に簡単に乗るなんて、意外と可愛いところがあるのね。ネズミ捕りよりもトラバサミをお勧めするわ。指を挟まれた程度じゃ私は止まらないもの」
スラッグはマスクを上から指で押さえて、表情をも皮膚の下へと押し沈めた。
「……少し、下見をしたいのですが」
「いいわよ。今から行く?」
腰を上げかけたマリアベルに、スラッグは手で制した。
「もう少し」
「勝敗が気になるの?」
「いいえ、そうではなく」
突然、グラウンドから悲鳴が上がった。観客はどよめき、一様に驚愕を顔に貼り付けて身を乗り出す。
上がっている声から察するに、選手たちに何か起こったようだったが、二人の位置からはよく見えない。
しかし、スラッグはそちらに目を向けることなく、今度はあっさりと立ち上がった。
「行きましょう。仕事は見届けました」
「何をしたの?」
「言ったでしょう。仕事です」
騒然となる客席をすり抜けて、二人は会場の外を目指す。空気を読まない広告映像だけが、あの爽やかすぎる笑顔を四方に振りまいていた。
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