2. スラッグとパロット

 部屋の明かりが勝手に点いたのを見て、スラッグは目を細めた。もう深夜と言って差し支えない時間帯に自動点灯センサーが働いているということは、同居人がまだ起きていることを示している。

 二人暮らしには少々広すぎて、したがって寒いリビングには誰もいなかった。ガラス製のテーブルの上にはノート型端末が開いたままになっている。その横を通り抜けてバスルームの方へ向かったが、そこにも誰もいなかった。スラッグは少し考え込んだ後に、荷物をその場において身一つでバスルームへ入る。服を脱ぎ捨てて、マスクも外し、まるでその時初めて呼吸出来たかのように大きく息を取り込んだ。


 冷たいタイルに足を乗せ、その先にあるシャワーのノズルに手を伸ばす。数回の操作で温かい水がノズルからあふれて茶色い髪を濡らした。暫くそのままシャワーの水流に身を委ねる。「なめくじ」を意味する名前を持つためか、スラッグは雨やシャワーのような、降り注ぐ水が好きだった。体の表面を水が跳ねる感触や音が強ければ強いほど、自分の体が水と共に溶けあうような気分になる。皮膚はほどけて、神経は崩れて、体液は薄まりながら一つの大きな塊となる。シャワーの音と湯気で満たされたバスルームの中、意識すらも水のようになっていく。


『……帰ったのか?』


 天井のスピーカーからの声が、スラッグの意識を水の中から汲み上げた。少々残念な気持ちになりながらも、その声へ応答する。


「えぇ、先ほど」

『遅かったじゃないか』

「雨でしたから」

『……あぁ、そうだな。酷い雨だよ』


 同居人は苛立った声を出した。


『雨は嫌いだ。ネットワークも鈍るし、情報も手に入らない。そのくせ、楽しそうなことは起きる』

「外に出ればいいんですよ」

『素晴らしい回答だな。それで家に帰ったら算数の宿題をしろと?』


 皮肉めいた言い回しに、スラッグは小さく笑った。シャワーを止めて天井を見上げる。まるでそこに相手がいるかのように。


「宿題はありませんが、頼みたいことはあります」

『言ってみろよ。下らない内容だったら……』

「第四博物館について調べてほしいんです」


 スピーカーの向こうで鼻で笑う音がした。一緒に聞こえたザリッという音は、マイクに指が触れたことによるものだろう。同居人は喋るときにマイク部分に指を添える癖がある。


『感心だな。漸く古代史について真面目に勉強をする気になったか』

「そんなところです。恐竜がパソコンを使い始めたころについて学ぼうかと」


 棚の上に並んだ大量のソープバーから適当なものを一つ手に取る。ライラックの匂いが鼻をついた。


「ねぇ、パロット。ライラックは買わないでとお願いしたはずです」

『何を買っても文句を言うくせに。前はオレンジが気に入らないとふてくされていただろう』

「そんなこと言いませんよ」

『言ったよ』


 欠伸をしながら同居人は返した。


『まぁいい。お前が必要だというなら調べてやる。いつまでに欲しい』

「出来れば明日中」

『お前は今すぐ社長になるべきだよ。社員の過労死数の世界新レコードを叩き出せる』


 また指がマイクを擦る音がした。


『何の仕事をしているか知らないが、ちゃんと逐一報告はしろよ』

「僕は子供じゃありません」

『そうだったな、アンジー坊や。もう風邪を引いても泣かないし、熱出して食ったもん全部吐き出しても一人で歩いて医者に行けるってわけだ。俺の手なんか借りずに』


 突き放すような口調に、スラッグは慌てて顔を上げた。 


「それについては感謝してますよ。子供のころからずっと」

『別に気を使わなくていいさ。俺は坊やの成長を喜ばしいと思ってるよ』


 スピーカーが切れた。壁にはめ込まれた通話用のスイッチを押すが、相手の応答はない。

 スラッグは呻くような声を上げ、片手で頭を抱えた。きっとバスルームを出たころには、同居人は口も利かずに自室に閉じこもっていることだろう。ここで機嫌を損ねられるのは、スラッグにとっては非常に困ることだった。無論、相手もそれを承知のうえに違いない。子供のころの恩義を忘れた「アンジー坊や」に対する嫌がらせも混じっていることだろう。

 面倒だと思う一方で、機嫌を取る以外の選択肢がないことをスラッグは理解していた。悪態を吐こうと反抗期の真似事をしようと、パロットには逆らえないし、逆らうつもりもない。少々過保護にすぎると思うこともあるが、それとて相手の愛情だということも知っている。

 どうやって機嫌を直してもらおうか。そう考えながらスラッグは再びシャワーのノズルへ手を伸ばした。

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