第2話 私の努力を返してくださいませ

 婚約者に対しお前と表現するのは、マナーのお勉強をさぼった影響でしょうか。礼儀作法をお教えするサヴァレーゼ伯爵夫人が聞いたら、卒倒しそうですけれど。この広間のどこかで青ざめておいででしょうね。


 こちらの発言を禁じておいて、勝手に罪状が並べられていきます。


 王太子殿下の口から飛び出した罪とやらは、子供の嫌がらせレベルでしたわ。トイレに閉じ込めただの、彼女の私物を捨てただの……そんなくだらないことに関わるほど、私に時間の余裕はありません。


 ご存じないようですけれど、王妃様とのお茶会もほぼ1日置きに参加しておりますし……未来の姉妹である王女様方との交流も疎かには出来ません。王家に嫁ぐことを義務づけられたメレンデス公爵家の令嬢たるもの、自由時間などないのです。淑女教育やダンスのレッスン、他国を含めた歴史や語学の授業も忙しく、さらに教養を深めるための読書は欠かせません。


 市井の暮らしも知らねばなりませんから、お父様の領地視察も同行しました。忙しくてそちらの……不貞のお相手に意地悪する暇はないです。そんな時間があれば、屋敷の庭で薔薇を愛でながらお昼寝がしたいわ。そもそも初見のご令嬢ですのよ? お名前も初めてお聞きしました。顔も知らない方に嫌がらせなど出来ません。


 反論できない以上、何も言わずに黙って聞くしかないですね。


 本来私より忙しいはずの王太子殿下はさぼって逃げ回り、新しい女性をたぶらかす余暇がおありのようで……羨ましい御身分ですこと。嫌味たっぷりに心の中で文句を並べたら、肩の力が抜けました。


 今の大人しさから想像できないほど、私、子供の頃から口の悪いお転婆ですの。ここが王宮ではなく、あなたが王太子殿下でなければ殴ってますわ。


 口を塞いだ分だけ、脳内の罵倒は辛辣さを帯びていきます。


「何も申し開きをしないのは、すべてが真実であるからだ」


 勝ち誇ったように断言された王太子の隣には、淫らな恰好の女性が立っていました。スリットが大きく入ったスカートは足を膝の上まで晒し、肩が大きく開いた胸元は危険な位置まで露わでした。慎まやかな胸元でよろしかったですわ。フランカなら、そこまで開いたら溢れてしまいそうですもの。ショールも羽織らず、レースや絹の手袋もしない指先は丸見えでした。


 腰を抱き寄せていらっしゃいますけど、今の行為は完全な不貞行為ですわ。婚約者がいながら、淫らな姿の女性を抱き寄せる己の行いを顧みられたら如何?


 貴族令嬢どころか、市井の女性でもここまで露出しないでしょう。夜の蝶であれば別ですが……はしたないにも程があります。


 眉をひそめて、上から下まで不躾を承知で眺めてしまいました。未婚の貴族女性は髪をハーフアップにするもの。既婚になればすべて結い上げるのが公式マナーです。


 カルメンと呼ばれた女性は、結わずに髪を垂らしておられました。小ぶりな髪飾りが揺れていますが、あられもない姿を見た貴族の認識は「夫婦の寝室で夫にしか見せてはいけない恰好で出歩く痴女」でしょう。


 裸よりいくらかマシ程度の恰好で、王妃殿下の誕生日の夜会に顔を出す彼女の感性に……何よりこの恰好の女性を平然と伴われた王太子殿下の頭の中身を疑うのも、無理はありません。


 これで王太子殿下なのです。次期国王と考えたら、この国の未来を悲観したくもなります。その分だけ、メレンデス公爵家から嫁ぐ王妃の教育は厳しいものでした。


 国を傾ける政策を打つ先代国王を窘め、止めさせたのが大伯母様だったのは、記憶に新しい出来事です。歴史書をめくるまでもなく、現役の貴族も知る醜聞でした。


 先代愚王のせいで、竜の乙女の教育が厳しくなりました。おかげで伯母様と私がどれだけ苦労したか……額を押さえて嘆きたくなるが、愛する人を略奪されて泣く姿に見えるのは癪だと呑み込ました。そんな事実無根の勘違いをされたら、屈辱で憤死しそうですわ。


「王太子殿下、隣の女を下がらせてくれ。皆が目のやり場に困っている」


 兄エミリオが呆れ顔で口を挟みます。見かねたのでしょう。私は口出しを禁じられていますので、扇の陰で溜め息をついただけでした。


 お兄様の「女」という呼び方、本来なら「女性」とすべきよね。貴族なら「ご令嬢」でもいいわ。今の呼び方は愛人扱いと同じ。お気持ちは察して余りありますが、お兄様の評価が下がったら切ないです。


 目くばせすると、平気よとフランカが扇の陰で笑いました。周囲の貴族の愁眉を見れば、エミリオ兄様が責められる可能性はなさそうですわね。


 ひとまず我慢しましたけれど、さすがに呆れを通り越して失望が胸を占めております。義務とはいえ……こんな愚か者の妻になるため、私は努力させられたのでしょうか。あの時間がすべて無駄になったなんて、立ち眩みがしそうです。


 子供の頃から、本当に大変でしたのよ。


「皆が彼女の美しさに見惚れるからか?」


 自慢げに尖った顎を持ち上げて鼻を鳴らすバカの口を、大きなパンで塞ぎたいわ。婚約者であった事実ごと葬り去って、二度と目が触れない場所に埋めて、上から踏んでしまいたい。


 恥ずかしすぎるもの。この人が私の婚約者だった過去は、今夜、私の人生最大の汚点になりました。


 両手で顔を覆いたくなりますが、化粧が崩れるのでやめておきましょう。侍女達が朝から必死で整えてくれた髪や化粧を台無しにするのは、申し訳ありません。風呂で肌や髪を磨き、きついコルセットで腰を絞り、複雑な仕組みのドレスを纏う。髪や化粧に3時間も鏡の前に座り続けた苦労が脳裏を過りました。


 そもそも、何でこんなことになったのかしら?

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