第110話 未来へ紡ぐ


 


 怯え、逃げ惑う人々の元に、可憐な少女たちが舞い降りる。

 傷付いた人々を護り、励まし、凜と首を擡げて、強大な魔物に立ち向かう。


「皆さまの声は、勇者さまに届いています! だからどうか膝を折らないで! 前を向いて! 共に、私たちの世界を取り戻しましょう!」


 魔術の光が乱れ咲く。

 大陸各地で、黒いうねりと白銀の光がぶつかり合い、拮抗し、魔物の侵攻が止まる。

 やがて魔の軍勢が、徐々に押され始めた。


 天鏡に映る光景に、魔王が信じられないものでも見るかのように目を瞠る。


『我が軍勢を食い止めているのか……!? それに、あの娘どもが纏う魔力……貴様、まさか……!』


 俺は答える代わりに大きく踏み込むと、その首目がけて祝福の剣アンベルジュを一閃させた。魔王が低く唸りながら、速度の乗った一撃をかろうじて弾き返す。


「っ、は……!」


 他者と五感を共有する人魚の秘宝『水天の輝石』が輝く、胸の奥。

 繋がった回路パスを通して神姫たちへ魔力を送るごとに、心臓炉心が熱く熱を帯びる。

 左眼に幾重にも重なった映像がなだれ込んで、視神経が焼き切れそうな痛みを訴えた。


 血の色をした双眸を歪めて、魔王が吼える。


『それはもはや人の領域ではない! 貴様、神にでもなるつもりか!』


 力任せに振り下ろされた爪を、真っ向から受け止めた。


「俺はただの人間だよ」


 全能の神、万能の力。

 ただ一人で、何もかもを為し得る力。


 そんなものがあれば、どんなに良かったか。


『ならばなぜ抗う! 苦しみ、傷付け合い、避けられぬ滅びが待っていると知って尚、なぜ生を選ぶのだ!』


 逆巻く炎から跳び退り、剣を振り抜く。

 放たれた光刃が、魔王の角を斬り飛ばした。


「俺が俺であるために。胸を張って、彼女たちの傍にいられるように。大切な人たちの笑顔を――未来を、護るために」


 この世界に喚ばれる前から。

 俺は弱く、何も持たず、一人では何ひとつ成し得なかった。

 そんな俺を、みんなが支えてくれた。力を貸してくれた。俺は一人でここに立っているわけではない。みんなで強くなってきたから、ここまで来ることができた。


 血の色に燃える灼眼が、俺の右手の甲に刻まれた転送陣を捉える。


『ならばその命綱希望、断ち切ってくれる!』


 太い脚が地を蹴った。

 甲高い音を散らして、爪と剣とが交わり――魔王の手から、燃え盛る業火が放たれた。


「ロクさま!」


 黒炎の刃が右腕を駆け上がる。

 皮膚が裂け、切り刻まれた転送陣から血が飛沫いた。


『はははは! これで希望は絶たれた! 貴様の生きる意味とやらが無惨に食い散らかされる様を、指を咥えて見るがいい……!』


 灼熱の痛みに歯を食い縛りながら、笑う。


「そうだよな、俺がお前ならそうするよ」


 魔王がはっと目を見開く。

 その目に映るのは、焼け焦げた胸元――心臓の上に刻み込まれた転送陣。


「残念、こっちが本命だ」

『貴、様ァ……ッ!』


 魔王の相貌が引き攣る。

 太い腕に、漆黒の魔力が膨れあがった。


『ならば、その忌々しい心臓ごと抉るのみ!』


 俺は二刀流スキルを発動、右手から零れ落ちた祝福の剣アンベルジュを左手に掴み取った。

 彼女たちの決意を、覚悟を、愛を、命を。この心臓に預かった。

 このパスは、絶対に断ち切らせたりしない……!


「やれるものならやってみろ!」


 黒炎が唸りを上げ、魔力と魔力がぶつかり合った。

 剣戟の余波が、雷嵐となって荒れ狂う。

 肩を掠めた一撃が大地を割き、深い爪痕を刻んだ。

 一瞬体勢を崩した俺を狙って、衝撃波が走り――


「『花天虹フラッド・プリズム!』」


 暁の盾アマンセルから眩い光が迸り、衝撃波を相殺した。

 憎しみと殺気の籠もった赤い視線が、リゼを貫く。


『ッ、この、混沌の土台となるためだけに産まれた、不完全な道具人形如きがァ……! なぜ、なぜ我が崇高なる救いを理解しない! なぜ永久の安寧を拒み、抗うのだ!』


 触れれば切れるような質量さえ伴った視線を、リゼは真っ向から受け止めた。


「怒りや恐れ、哀しみや絶望を乗り越えて、人は前へ進むのです。恐れず踏み出す一歩が、輝かしい未来へ続くと信じて」


 遠い地で、神姫たちが戦っている。

 人々の祈りが、声が、俺たちの背中を押す。


 立ち塞がる傀儡を前に、フェリスが剣を突き立てて立ち上がる。


「もう一度! 何度でも!」


 強く煌めく瞳で弓を構えながら、ティティが吼える。


「絶対に諦めない!」


 顎に滴る血を拭って、サーニャが顔を上げる。


「わたしたちは、一歩を紡ぎつづける!」


 いつか終わる生。尽きる命。

 人間は脆く、弱く。それでも前に進み続ける。不完全だからこそ前を向き、願う未来へ手を伸ばす。


 眩く輝く魔導剣を携えて、フェリスが地を蹴った。


「みんなが悩みながら積み上げてきた奇跡を、苦しみながら繋いできた想いを、無かったことになんてさせないわ!」

『こ、の……虫ケラどもがあああああああああああああッ!』


 魔王の全身に黒い魔力が迸った。衝撃波が来る。


ッ!」


 俺は地を蹴って加速、衝撃波が放たれるよりも早く斬撃を叩き込んだ。


『ぐううっ……!』


 唸りを上げて迫った刀身を、魔王は右腕で受け止め、身を捩る。

 心臓を狙って突き出された黒爪が、脇腹を抉った。

 噴き出る血に構わず追撃しながら吼える。


「プリシラ、右翼に魔術障壁を展開! ナターシャ、限界まで魔物を引きつけろ! 包囲網の穴を突いて一気に突破する――今! 一斉掃射!」


 幾重にも重なった視野を切り替えながら、遠く離れた地の戦況を読み、采配を振るう。


 遠い空の下、ベルが受けた傷が、コーデリアが負った痛みが、全身に走る。

 視神経から脳髄が焼け付くような悲鳴を上げた。

 眼窩の肉が灼け、左眼から魔力の炎が迸る。

 切り刻まれた右腕は赤く爛れ、既に使い物にならない。

 それでも骨を軋ませながら、地を砕く力さえ秘めた必殺の爪を、悉く躱し、防ぎ、斬り返す。


『くっ……滅びるがいい!』


 至近距離から放たれた衝撃波を、リゼの盾が防ぎ――諸共大きく弾き飛ばされた。


「っ、は……!」


 顎に流れ落ちる血を拭い、まっすぐに魔王を睨み付ける。


『なぜだ! なぜ諦めない! その脆弱な魂を削り、脆い身体を引きずってまで、なぜ!』


 逆巻く瘴気に肺が軋んだ。

 深く刻まれた傷口から、生命が流れ出していく。


 挫け、諦め、全てを投げ出す。それが出来れば簡単だろう。楽になるだろう。分かっている。それでも――


 声が届く。


 急峻な岩山の連なる鉱山で、老練の鍛冶師が娘や弟子たちを励ましながら叫ぶ。


「誇れ、あの勇者と共に戦えることを! 諦めるな! 俺たちの力が、必ず届く!」


 遠く離れた辺境の城で、兵士が雄叫びを振り絞る。


「第三班、一斉射撃! 全弾撃ち込め! 我らはまだ倒れるわけにはいかない! フェリスさまが、ロクさまが戻られるまで、ここをお守りするんだ!」


 揺れる船の上で、白髪の商人や船乗りたちが果敢に吼える。


「ティティ嬢ちゃんが戦ってる! 勇者さまが、俺たちの世界を必ず取り戻す! 俯くな、信じて前を向け!」


 人の営みと共に歴史を紡いできた街の郊外で、武器を手にした冒険者たちが不敵に笑う。


「足を止めるな、英雄あいつに続け! 反撃の狼煙を上げろ! あのお人好しの優男に、俺たちの底力、見せてやれ!」


 深い森でドラゴンが吼え、エルフの魔術が炸裂する。海の底で人魚が謳い、水龍が巨大な海獣を喰い千切る。

 戦う人々を鼓舞しながら、白銀の魔力を纏った神姫たちが叫ぶ。


「たとえ遠く離れていても、私たちは繋がっています! 手を取り、戦いましょう! 勝利を手にするまで! 勇者さまと共に!」


 春雷の籠手シャンディエが、星影の短剣ルアノーヴァが、朝凪の弓レンビリオンが。

 神姫たちの携えた神器が、白銀の輝きを以て魔を討ち払う。

 各地で、人々が闇の軍勢を押し返し、戦況を塗り替えていく。


「ッ、は……」


 脈打つ心臓に熱が灯る。


 多くの道を往き、多くの人と握手を交わした。鍛冶師の硬く豆に覆われた手。精霊王の細くたおやかな手。先代勇者と獣人の少女の温かく優しい手。恋多き貴婦人の柔らかい手。商人のがっしりとした皺深い手。


 旅先で出会った人々が。木々が、大地が、海が、精霊が。生きとし生けるもの、全てが。

 今にも頽れてしまいそうな身体を支えてくれる。


 ゆっくりと。

 焼け爛れた右手を掲げる。


 諦め、手放し続けた人生だった。


 もう二度と、手放したくない。大切な誰かが傷付かないように。哀しみを背負わなくていいように。一人ぼっちで泣くことがないように。


 最後まで戦い抜く。大切な人の笑顔を、未来を、共に歩んだ想い出を、護るために。


 俺を信じてくれる人がいる限り――


「何ひとつ、諦めはしない……!」


 心臓が灼熱に燃え上がる。

 胸の奥に息づく呪文を詠唱する。

 人には不可能だとされる、神代よりもなお遠い、遥か太古の魔術。

 その呪文を。


「――《汝、久遠を統べる混沌。天地なく光もなき、遥か古に在りし生命の源流よ。万物の礎よ》――」

『ッ、貴様、その呪文は……!』


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