第107話 反撃、開始
深海から響くような声が、鼓膜を揺らす。
「ロクさま! リゼさま!」
遠いフェリスの声に、まぶたを開く。
そこは瘴気の巣だった。
強く抱きしめた腕の中。
柔らかなぬくもりが身じろぐ。
「おかえり、リゼ」
ゆっくりと瞼を開いたリゼに笑いかける。
暁色の双眸が涙に滲んだ。
その細い身体を包むのは、白銀のドレス――俺の魔力を纏ったリゼは、眩いほどに清らかで。
「ご無事で良かった……!」
フェリスとティティ、サーニャが涙ぐみながら声を詰まらせる。
他の神姫の姿はない。
「ごめん、心配掛けたな。みんなも無事で良かった」
「黒い嵐が――リゼが、守ってくれたの」
玉座との間に、混沌の残滓が嵐の壁となって立ちはだかっていた。
リゼが進み出て、手をかざす。
荒れ狂う
『――愚かな。永久の安寧を捨て、刹那の生を選ぶか』
黒い脈が蠢く、クレーターの底。
玉座に掛けた魔王が、つまらなそうに吐き捨てる。
『混沌こそが、完全であり全て。かつて我々はひとつだった、だからこそ完全だった。個という脆く不完全な器にしがみつく貴様らに、もはや我を斃す術はない』
俺は黙って祝福の剣を構えた。
リゼがまっすぐに魔王を睨み付ける。
「そう、あなたの言う通りです。私たちは不完全です。けれど、それでも諦めません。私たちは、弱いまま、貴方を斃します」
『ならば、他の仲間はどうした? 貴様らを見捨て、我先にと逃げ出したぞ。せめて勇者を守る肉の盾にでもなれば、ほんの一太刀でも我に届いたかもしれぬというのに――いや、その脆い
この場に残った五人を見て、魔王はせせら笑った。
『混沌から抜け出たことは褒めてやろう。だが魔の力は、未だお前の魂に巣喰っている。今度こそ手に入れ、覚醒させるのみ』
赤い双眸が笑みの形に歪む。
『最後のチャンスをくれてやる。その男を愛しているのだろう。今こそひとつに――』
朗々と紡がれる口上を遮って、リゼは微笑んだ。
「ひとつになってしまったら、愛せないではないですか」
祝福の剣に細い手をかざす。
刀身を黒い光が包み、漆黒の炎が噴き上がった。
『な、に……!?』
魔王が弾かれたように目を見開く。
『貴様……! なぜ、
リゼが
その細い四肢が、漆黒の
鮮烈な暁色の瞳が、まっすぐに魔王を見据える。
「もう哀しみに目を背け、抗うことはやめました。これも私と共にあり、私を形作る、大切な力の一部です」
――
魔王の口がひくりと歪む。
『魔の力を飼い慣らしたところで、所詮は付け焼き刃! 我が力に敵うと思うてか!』
魔王が咆哮と共に腕を振り抜いた。
地を削りながら迫った衝撃波を、横薙ぎの一振りで相殺し、吼える。
「行くぞ、リゼ!」
「はい!」
盾を携えたリゼが、黒炎を纏う足で地を蹴り、疾駆する俺にひたりと寄り添った。
『小賢しい! その脆弱な肉体、切り刻んでくれるわ! 出でよ、我が傀儡!』
大地から黒い影が無数に湧き上がり、行く手を阻んだ。
不気味に蠢く腕が、俺のみぞおちを貫こうと伸び――
「させるもんか! 『
ティティの声が響き、枯れた大地に蒼く輝く
光の雨が、傀儡たちを打ち倒す。
新たに湧き出た影の前に、フェリスが躍り出た。
「露払いは私たちに任せて! 『
金色の稲妻が迸り、迅雷のごとく敵を屠る。
残る傀儡の間を、サーニャが縫うように駆け抜けた。
「『
星影の短剣に核を突かれ、傀儡たちが一斉に霧散した。
「さあ、いって」
サーニャの横顔に頷いて身を沈め、四肢に魔力を流し込む。
鋭い呼気と共に地を蹴り――彼我の距離が消し飛んだ。
『……!』
白銀の残像を引く一撃を、魔王がかろうじて防ぎ――燃え盛る刀身が、その腕ごと斬り飛ばした。
『な、に……!?』
そのまま首を狙った斬撃は、仰け反った魔王の鼻先を掠める。
赤い瞳が憤怒に染まった。
『こ、の……! 矮小な人間どもがァァアアアアアッ!』
魔王の纏う黒炎が苛烈に燃え上がった。切断された腕が瞬時に再生する。
地を裂くほどの威力を秘めた魔力同士が、獄炎を上げながらぶつかり合う。
荒れ狂う火花の向こうで、魔王の顔が忌々しげに歪んだ。
『この我に牙を剥こうというのか! 弱く、脆く、定められた命に翻弄されるばかりの、不完全で醜悪な生き物が!』
唸りを上げる爪を、剣を一閃させて薙ぎ払う。
「そうだ、俺たちは完全とはほど遠い。弱く、脆く、みっともなくもがいてはぶつかり合い、時に膝を付く。だが、だからこそ――」
放たれた黒炎の矢を
「だからこそ、高みを目指すことができるのです。過ちを正し、手を取り合い、共に困難に立ち向かうことができるのです。時に傷付き、強大な力の前に斃れながら、それでも大切な誰かのために、前を向けるのです」
リゼは白銀のドレスを翻し、俺と呼吸を合わせて、魔王の攻撃を引き受ける。
ひたりと寄り添う気配に、いつか踊ったダンスを思い出した。あの夜もリゼは、俺の拙いリードについてきてくれた。こんな風に、どこまでも可憐に、麗しく。
『笑わせるな! 我が慈悲を拒み、
魔王の足下から、黒いうねりが大地へ広がっていく。
暗雲が渦巻き、雷雲が轟く。
黒炎を纏った刀身を受け止めて、魔王が嗤った。
『貴様らの選択が、地獄の釜を開いたのだ! 見るがいい、混沌を拒み、唯一の救いを捨てたがために、
天鏡から、魔物の咆哮と人々の悲鳴が渦巻き――
魔王の爪を剣で弾きながら、俺は低く囁いた。
「
『貴様、何を――』
ここにはいない
空に浮かんだ天鏡。
叫喚と惨劇、魔物の群れによる一方的な蹂躙が映し出されていたはずのそれは、今や一変していた。
『これ、は……!』
見開かれた赤い瞳に告げる。
「彼女たちは、逃げたわけじゃない。これが、お前が侮った、人間たちの力だ」
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