第106話 優しい手
◆ ◆ ◆
(わた、し……)
果ての無い闇を、ただ一人漂う。
名前さえ失って、形さえ忘れて。
目を開いているのか閉じているのか、それさえも分からない。
(私、は……――)
星のない宙。久遠に続く黄昏。
静寂に身体が溶け出して、どこまでも広がっていく。
静かで、穏やかで――とても孤独だ。
その、何もかもを呑み込み、溶かしてしまう混沌に。
《リゼ》
声が差し染めた。
優しくて懐かしい声。
ああ、と小さく思う。
あの人はいつだって温かくて、どこまでも優しくて――だからこそ、いつか失ってしまうことが怖かった。
あの人が抱き締めてくれる度、自分とは違う逞しい身体が、ひどく安心するのに、あまりにも違う生き物であることが哀しくて。
あの穏やかな声も、香りも、ぬくもりも、まなざしも。
あんなにもたくさんくれたのに、もっと欲しくて……離れてもなくならないように、深く深く、刻み込んで欲しくて――
そうだ。幾度願ったことだろう。
強くなりたい。優しくなりたい。あなたのようになりたい――あなたと同じ生き物になりたい。
強く、優しく、何もかもを受け止めてくれる人。人の弱さにそっと寄り添い、背中を支えてくれる人。
あの温かさに深く溶け合って、ひとつの命になってしまいたいと、願ってしまった。
なんて愚かで、浅ましい。
それなのにあなたは、こんなどうしようもない私を、この果てのない闇の中で、見つけてくれた。
《一緒に帰ろう》
けれど、もう、私は、自分の姿さえ、忘れてしまって。
その声は優しく笑った。
《大丈夫。俺が覚えてる。手を》
心が震えた。
ないはずの手を伸ばす。
何もかも溶けてしまったはずの闇の中。
指先が、触れ合った。
重なる肌から、確かなぬくもりが伝わってくる。
優しい指が、そっと手の甲へと伝う。
あの人が触れる箇所から、
まるで神が人を造ったように。
《そのまま、目を閉じていて》
ああ、そうか、と息を吐いた。
私は、暗闇に溶けてしまったのではない。ずっと、目を閉じていただけなのだ。
泣きたくなるような深い安堵と共に、まぶたが形作られて。
《そう、いい子だ》
温かい手のひらが、腕をそっとなぞり上げ、肩を撫でる。
首から頬、額、頭へ。慈しむように、長い指が伝った。
優しく髪を梳かれて、思い出す。そうだ、私は、亜麻色の長い髪を持っていた。
大きな両手が頬を包みながら、親指でそっとまぶたを撫でてくれる。
温かな指先が鼻筋を通り、唇に触れた。
「ロク、さま……」
唇が動いて、声を思い出す。
優しい手に導かれて、少しずつ、自分という存在を取り戻していく。
《手を伸ばして》
目を閉じたまま、震える手をそっと伸ばした。
指先が、温かい肌に触れた。
――頬だ。あの人の頬。
冷たい手でそっと包む。
愛する人の姿形を確かめるように。
《俺が分かるか?》
頷いた。
柔らかく笑う気配がして、逞しい腕が、身体を包み込んだ。
《あとはもう、思い出せるはずだ》
まるで魔法のように。温かな胸の中で、自分が形作られていく。
優しいぬくもりが、自分の
いつか差し伸べてくれた手。抱き締めてくれた腕。自分を受け止めくれた胸の中。
その中で、目を開く。
愛する人がそこに居た。
「ロク、さま……」
透き通る夜空の色をした双眸が、ふわりと笑う。
「ロクさま……!」
手を伸ばし、縋るように首を抱き寄せる。
大きな手が、わななく背中をしっかりと支えてくれた。
触れ合う肌から体温が混じる。柔らかくて温かい、魂の形。命の温度。
頬に温かい雫が伝った。
私はこんなにも優しい形をしていただろうか。
「ごめん、俺はずっと、間違っていた」
優しい勇者の手が、背中に刻まれた
愛おしげに、慈しむように。
「
――ああ、そうだ。
熱く潤む胸の奥で、出会った時から今日まで共に歩んできた旅路を思い出す。
自分はどうしようもなく弱くて、泣き虫で、完璧とはほど遠くて――けれどこの人はいつだって、そんな自分を受け止めてくれた。
誰もが悪魔の子と恐れた赤い瞳を、綺麗だと言ってくれた。誰もがおぞましいと目を背けた
不完全で歪な私を、その欠落ごと、愛してくれる人だった。
涙が溢れる。
強く抱き寄せれば、鼓動が溶けてひとつに重なった。愛する人の、命の音に耳を澄ませる。
果ての無い混沌の中に、ただ二人。
声もなく、互いの存在を刻み込むように強く抱き合った。
◆ ◆ ◆
腕の中で泣くリゼの頭を、飽かず撫で続ける。
柔らかな髪にそっと唇を落とすと、リゼは泣きながら、子どものように笑った。
遥か頭上を見上げる。
果てのない宙。
どちらが上かも分からない。
「アンベルジュ」
名を呼ぶと、淡い光が浮かび上がった。
光がほどけて、人の姿を取る。
魔王に手折られ、魔力の大半を喪失してしまった彼女は、幼い子どもの姿をしていた。
「ごめん。辛かったよな」
「大したことないわ。あなたが見つけてくれるまで彷徨い続けた千年間に比べたらね」
細い身体を包む光が、今にも消えそうに瞬く。
俺は小さな手を取った。
「あるだろう、君を救う方法が」
彼女はいつか耳に囁いてくれた。
千年の刻を超えて目覚めた神器――その真価を、十全に引き出す方法を。
オーロラ色に光る双眸が、俺の目を見据える。
「――あるわよ。キスよりすごい、とっておきがね」
「俺の
アンベルジュはどこか泣きそうに顔を歪め、そして桜色に艶めく唇を引き結んだ。
小さな手が、俺の胸に触れる。
「死んだら許さないから」
神秘を宿す双眸に頷く。
アンベルジュは唇を引き結ぶと、左手をぐっと俺の胸に押し当て――その手が、ゆっくりと沈み込んだ。
「ッ……!」
「ロクさま……!」
俺を支えようと縋り付くリゼの肩を抱く。
小さな手が、魂を掻き分けて入ってくる。
俺の奥底で息づく、命の在処を目指して。
目を閉じて、深く呼吸を繰り返す。
(魔力は生命の源流。血潮そのもの。生物の根幹に流れるもの……――)
そして。
身体の底で脈打つ炉心――俺の
「――……!」
足下から温かい風が舞い上がり、眩い光華が渦巻いた。
心臓が強く速く脈動し、魔力が吸い上げられていく。
アンベルジュの姿が光に包まれ、変貌を遂げた。
あどけない少女から、美しく、しなやかな肉体を持つ美貌の女神へと。
「手を」
たおやかな声が響いた。
差し出された白い右手を取る。
「我が名は
艶やかな微笑みを湛えた唇が、俺の手の甲に口付け――女神の姿が、剣へと変じる。
胸に突き立った美しい柄を、俺はゆっくりと引き抜いた。
眩く輝く刀身が現れる。
美しく、光り輝く剣。あまねく命を祝福する、大いなる原初の宝器。
リゼと視線を交わして、頷く。
そして白銀に輝く切っ先が、混沌を引き裂いた。
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