第105話 混沌、開花
全ての厄災の根源。闇を束ねる者。一度は封印されながら、千年に渡って恐怖と惨劇を積み上げ、人々を苦しめ続けた魔族たち、その頂点に君臨する、王。
それは、歪な人の形をしていた。
漆黒の皮膚に、血のように赫く光る双眸。太く鋭く天を突く、二本の捻れた角。俺よりも一回り大きな体躯は漆黒の炎を纏い、四肢には獣の如き凶悪な爪が鈍く光る。
『あの呪わしい大戦以来だな。千年の永きに渡り、この刻を待っていたぞ、勇者よ』
細胞のひとつひとつを押し潰すような重たい声が反響した。
下がりそうになる足を叱咤して剣を構える。
背後で、姫たちが神器を展開した。
しかし魔王は嗤った。泰然と、まるで
『開闢の刻は来た。貴様らには、新たな世界の創成を、最前列で見届けてもらおう』
禍々しく赤い双眸が、リゼを捉える。
鋭い爪を宿した手がゆっくりと差し伸べられた。
『花嫁よ、我が元へ』
「……!」
『お前と我が交わることで、世界は混沌に還る。分かるか。我らはひとつだったのだ』
唇を噛み、苛烈なまなざしで睨み付けるリゼを、魔王は
『我が花嫁よ、ひとつに戻ろう。我らは分かれるべきではなかったのだ。命の終わりを定められた、醜く儚い、哀れな生き物よ。今、我が大いなる慈愛を以て、永久の救済を与えよう。信じてくれ。おまえたちを愛しているのだ』
「妄言を……――!」
柄を強く握り直した俺を見て、赤い双眸が嗤う。
刹那、魔王の纏う瘴気が膨れあがり――
魔王が風を巻いて突進すると同時に、俺は地を蹴っていた。
漆黒に燃える爪が繰り出す一撃を、祝福の剣で迎え撃つ。
「……!」
重たい衝撃に歯を食い縛る。
乾いた大地に甲高い音が響き、黒と白の閃光がぶつかり合った。
がきりと噛み合った爪と剣が、ぎちぎちと軋む。
「く……!」
灼熱の風が吹き付ける。身体がひどく重い。肺が押し潰されそうだ。
それだけではない。
噛み合った刃から流れ込んでくる、悍ましいまでの瘴気。
──
『ふ、はははは。どうした、永きに亘る輪廻の間に錆びついたか? 千年前に刃を交えた時の方が、よほど歯応えがあった』
「なに、を……ッ!」
燃え上がる炎の向こうで、赤い両眼が不気味に嗤った。
『思い上がった哀れな生き物よ。その
黒炎を纏った手が、アンベルジュを握り込み――ガラスの割れるような高音と共に、刀身が砕け散った。
「っ、な……!?」
背後で神姫たちが息を呑んだのが分かった。
心臓を狙って突き出された爪を紙一重で躱し、跳び退る。
「は……」
頬にぬるい汗が伝った。呼吸が上擦る。
アンベルジュは半ばから失われていた。折れた刀身から、白銀の魔力が流れ出していく。
祝福の剣が――俺の魔力が通用しない。
神器を遥かに凌駕する、魔の力。
神姫たちの顔が絶望に染まる。
光を失っていく刀身を、俺は鞘に収めた。
『脆い』
再び玉座に座した王が、低く
『脆い、脆い、脆い。所詮はこの程度か。貴様ら人はあまりに弱く、脆い。――だが、それでいいのだ。己の無力を悔い、憂う必要はない。護るべきものなど、最早ないのだから』
玉座から黒い影が落ちた。
漆黒の脈が足下を這い、大地へ広がっていく。
「これは、一体……」
フェリスがはっと顔を上げる。
「空に……」
暗雲渦巻く天に、黒い鏡が現れていた。
空を埋め尽くすほどに浮かび上がった鏡、そのひとつひとつに、遠く離れた地の光景が映し出される。
「見て、あれ……!」
ティティが引き攣った声を上げる。
鏡に映るのは、荒れ狂う魔物たちの姿だった。
黒い脈が大地を侵食し、瘴気に覆われたダンジョンから、魔物たちが溢れ出す。
吼え猛り、怒り狂う魔物が、村や町、人々の営みを目指して侵攻する。
『あれなるは我が闇の軍勢、命を蹂躙する行進。我が瘴気を得た群れは、叫喚と惨劇を道連れに、この地上に蔓延る命を悉く殺し尽くすだろう』
群れは大地の瘴気を吸い上げながら一歩ごとに巨大化し、翼を生やし、黒いうねりと化しながら進軍する。
ある天鏡を見上げて、リゼがはっと声を上げた。
「あれは……!」
そこに映し出されているのは、リゼの故郷だった。
人々が平和な生活を営み、穏やかに暮らす町へ、漆黒の軍勢は容赦なく迫る。
「いや、いやです……にげて……おねがい、にげて……!」
シャロットの祈るような悲鳴は届かない。
世界各地で、同じ光景が繰り広げられていた。
南国諸島の海や、精霊の森、ハナマ鉱山。旅の途中で立ち寄った町や村。神姫たちの故郷へ、死の行進は恐ろしい咆哮を轟かせながら、全てを呑み込もうと容赦なく押し寄せる。
「そん、な……」
神姫たちが声を失って立ち尽くす。
絶望が立ち込める中、魔王の声が優しく誘う。
『案ずることはない。
「いいえ……」
リゼが声を震わせ、魔王を睨み付けた。
「いいえ! 私たちは諦めません! 必ずあなたを斃して、私たちの世界を、大切な人々を、護ってみせます!」
絶望に押し潰されそうになりながら、それでも果敢に前を向く少女に、魔王が嗤った。
『そうだ。それでこそだ。愛情深く、慈悲深い。それでこそ、混沌の母に相応しい』
ゆっくりと。
黒く燃えさかる爪が、俺を示した。
『その男と、同じ生き物になりたくはないか』
リゼが息を詰める。
「なに、を……――」
『混沌に至れば、全ては融け合い、無へと還る。他者との境界もなく、許し合える世界。言葉がなくとも解り合える世界。愛する者を、傷付けることのない世界』
はっと目を見開くリゼに、鋭く囁く。
「リゼ、耳を貸すな」
しかし暁色の双眸は、どこか暗い淵を覗き込んでいた。
「私……私、は……――」
『お前は望んでいるはずだ。死もなく、断絶もなく、別れもなく。愛する者と、決して離れることはない世界を。その男と融け合い、ひとつの存在になることを。その脆く不完全な身体、心、魂――その男とお前を隔てるもの全て、我が取り払ってやろう』
血の色をした双眸が笑む。
『さあ、覚醒の刻だ』
魔王が指を鳴らすと同時、漆黒の風が逆巻いて、リゼを魔王が待つ玉座へ引きずり込んだ。
「ロクさま……!」
「リゼ!」
伸ばした手の先。
リゼの背中から底のない深淵が花開き、その身体を呑み込んだ。
「リゼねえさま!」
乾いた大地に、シャロットの悲鳴が悲痛に響く。
瘴気の蕾に包まれて、リゼだったものが変貌していく。黒く、暗く、何もかもを呑み込む虚無――混沌へと。
魂を捻るような産声と断末魔を繰り返しながら、のたうち、捻れ、歪に膨れあがっていく、黒い影。その姿は、まるで苦しみのたうつ獣のような。大地に根を張る大樹のような。あるいは、哀しみに泣き叫ぶ少女のような――
混沌は脈動し、狂おしく悶え、やがて天を覆うほどに巨大な少女の影法師となった。
誰もが声を失って立ち竦む中、鳴き絞るような咆哮を上げながら、混沌が身を捩る。
遥か頭上からぼたぼたと落ちてくる黒い欠片を見て、サーニャが掠れた声で呟いた。
「リゼ……泣いてる……?」
魔王がひび割れた哄笑を上げながら玉座から立ち上がる。
『さあ、我が手を取れ、開闢の花嫁よ、混沌の母よ! 今こそひとつに還ろう。唯一にして完全なる存在へと!』
無貌の混沌へ、魔王が手を差し伸べ――黒い火花が、その手を弾いた。
『何故だ……何故、我を受け入れない』
驚愕さえ孕んだ声に応えることなく、混沌がゆっくりと振り返る。
貌のない少女のまなざしが、俺を捉えた。
「ロクさま……!」
神姫たちが悲鳴を上げながら俺を下がらせようとするのを、そっと制する。
「……リゼ、こっちだ」
低く、優しく、語りかける。
俺の呼びかけに応えるように、黒く巨大な手が持ち上がった。
「そう、いい子だ」
まっすぐに俺を見つめる混沌に目を細めて、俺はマノンを振り返った。
「マノン。あとを頼む」
マノンは息を詰め、唇を引き結び、ただ一言「お任せ下さい」と頭を下げた。
今にも泣き出しそうな神姫たちに笑いかける。
「大丈夫だ。必ずリゼを取り戻す。忘れないでくれ、俺の心は、いつもみんなと共にある」
声を詰まらせながらも強い瞳で応える姫たちに頷きかけて、俺は混沌へと手を差し伸べた。
漆黒の少女が虚ろに身を乗り出した。その輪郭から、黒い
「ごめん、辛いよな。苦しいよな。大丈夫、俺もそっちに行くよ。必ず君を救け出す」
無駄だ、と魔王の声が嘲るように響いた。
『
それでもいい、と無貌の少女を優しく見上げる。
必ず護ると約束した。もしもあの愛情深く、優しい女の子が、ひとりぼっちで暗闇に迷っているのなら、世界の果てまで探しに行く。君が笑顔で俺を迎え入れてくれたように。例えこの身が融け去ってしまったとしても。
漆黒に染まった手が、俺を求めて伸びる。震えながら、縋るように。まるで生まれたばかりの赤子が、愛を求めるように。
「ロクさま!」
フェリスの悲鳴を最後に、混沌が意識を呑み込んだ。
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