第104話 最果ての地
まだ太陽も覚めやらぬ早朝。
魔王復活の報を受け、後宮の広場では、緊迫した声と足音が忙しなく行き交っていた。
「アザレア部隊、装備の最終確認を。ネモフィラ部隊は備品をリストアップしてちょうだい、王宮の後方支援部隊へ回すわ」
「行軍の隊列は三列縦隊、
魔族に――魔王に通常の武器は通用しない。
神器を持つ俺たちが、前線で戦うことになる。
姫たちは緊張こそすれ、可憐な顔には使命感と覚悟が浮かんでいた。
「出立は一刻後。三日後に大陸連合軍と合流予定、以降街道を北上する。各自準備を進めてくれ」
「はいっ!」
俺は指示を出しながら、リゼを探して視線を走らせた。
リゼは不安そうにしている姫たちへ笑顔で声を掛け、人の間を縫うようにして忙しく立ち働いていた。
しかしふとした瞬間にその横顔は曇り、魔力が不安定に揺れる。細い身体に深く巣喰った魔の力が、リゼの不安に呼応するようにざわめいている。
「……――」
特殊なインクで姫たちの手の甲に転送陣を描いていたマノンが、俺を仰いだ。
「ロクさま。
「ああ」
俺は右手を差し出そうとし――顔を上げた。
「マノン。お願いがある」
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しんと冷えた空気が肺を刺す。
俺は広場の壇上に立って、美しく整列した神姫たちを見渡した。
手の甲に転送陣を刻み、装備を携えた可憐な少女たちが、俺を見上げている。
その顔に浮かぶのは、決意と覚悟。そして神姫としての誇りと、俺へ寄せてくれる心からの信頼。
ふと、初めてここに立った時のことを思い出した。魔術教官として受け入れてもらい、みんなの魔術を束ねて花火を打ち上げた日のことを。
あの日以来、彼女たちは細い手足で俺を支え、どこまでも付き従ってくれた。
みんなで旅を重ね、多くの魔物を打ち砕き、今日まで戦い抜いてきた。
きっとこれが最後の決戦になる――最後にさせてみせる。
心臓の上に手を当てる。
白い息とともに、短く言葉を紡いだ。
「君たちを愛してる。俺を信じて、ついてきてくれ」
少女たちが頷く。
強い決意を宿した瞳で、噛みしめるように。
「我ら神姫、どこまでも、勇者さまと共に」
マノンに続いて、後宮部隊が膝を付く。
その覚悟を胸に受け止める。
「ありがとう。みんなの命を、確かに預かった」
出立前の慌ただしさに包まれる中、右手の甲に刻まれた転送陣を見つめる。
姫たちと繋がり、無限に魔力を供給できる
心臓が、強く早く、脈を打っている。
ふと、鈴を転がすような声が聞こえた。
「リゼねえさま? 顔色が……どこか、おかげんが悪いのですか?」
「大丈夫よ、シャロット」
心配そうなシャロットに、リゼが笑いかけていた。
その顔は微かに強ばっている。
「……リゼ」
歩み寄って声を掛ける。
はっと見開かれた暁色の双眸に、喉で詰まりそうになる声を静かに押し出す。
「今まで、君に支えられてきた。君がいたから頑張って来られた。これからだってそうだ。けど、今回は、今回だけは、シャロットと一緒に、ここに……――」
「ぁ……」
リゼの身の内で、黒い魔力がざわざわと騒ぐ。青ざめた表情に胸が痛んだ。
――魔王が復活した今、『開闢の花嫁』であるリゼの身に何が起こるか分からない。本当は傍にいてほしい。だが、今のリゼを魔王の元に伴うのは、あまりに危険すぎる。
(俺はいくら傷付いても構わない。この子たちを護るためなら、この身を擲つ覚悟などとうに出来ている。ただ――)
ただ、君を失うことが怖い。
「ロクさま、私……――」
真紅の瞳が涙に霞んだ。桜色の唇が、震えながらほどかれた、その時。
後宮の空に、神経を引き裂くような不気味な高音が鳴り響いた。
「な……!?」
姫たちが耳を塞いで蹲る。
鼓膜を挽き潰す不快な音が脳を搔き回し、空間が軋んだ。
「っ!?」
地面に黒い亀裂が走る。蛇のようにのたうつそれは、広場を呑み込むほどに巨大で歪な魔法陣を結び、溢れた黒閃が俺たちを呑み込んだ。
身体が引っ張られるような不快な感覚と共に景色が歪み、破れ、渦を巻く。
やがて音が止み、乱れていた視界が像を結んだ。
「ここは……」
姫たちが辺りを見回す。
そこは、荒れ果てた大地だった。
冷たい風が吹きすさび、空には雲が低く垂れ込めている。乾いた地平線の果てに、岩山の稜線が遠く連なっているのが見えた。生き物の存在しない、灰色に塗りつぶされた世界。
そして、俺たちの眼下。
すり鉢状になったクレーターの底。
まるで巨大な生き物のように、漆黒の瘴気が渦巻いていた。
「瘴気の巣……!?」
姫たちが引き攣った声を上げる。
――千年前に人と魔がぶつかり合った、大戦の舞台。魔王が眠る最果ての地。
「瘴気の巣に、
背中に冷たい汗が流れる。
低い地鳴りが響く。
クレーターの中央に蟠った瘴気がうねり、龍のように首を擡げた。
「みんな、退がって!」
立ち竦む姫たちを背に庇って、猛る龍を睨み上げた。
濃厚な瘴気を孕んだ風が噴き付ける。おそらくこれが、大陸最強の部隊を壊滅させたものの正体。
漆黒の龍が
「『
俺は『毒霧』と『反転』を撚り合わせ、龍の鼻面へ魔力を叩き付けた。
瘴気の龍が断末魔を上げ、のたうちながら散っていく。
「……っ」
肺が引き攣り、肌がびりびりと震える。
瘴気の渦が晴れた、その先に。
何かが
重たい圧を伴った、内臓を搔き回すような獰猛な気配が、静かにそこに在る。
『ほう、よく退けたな』
すり鉢状に削れた大地の底。
玉座が在った。
骨と人肉を練り合わせ、無造作に組み上げたような、ひどく醜悪でおぞましい、歪な座。
そして、漆黒の玉座に座した、
その身体に禍々しい魔力が溢れ――
「!」
アンベルジュを抜くが早いか、力任せに振り抜く。
宙を薙いだ白銀の光刃が、玉座から放たれた黒い衝撃波を蹴散らしていた。
「きゃ……!」
余波が轟風となって荒れ狂い、姫たちが悲鳴を上げる。
玉座の人物は歌うように言った。
『成る程、先ほどのはまぐれではなかったか。人の身でよく耐える』
面白そうに歪む双眸を睨み、干上がった喉から掠れた呻きを絞り出す。
「魔王……――」
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