第99話 人魚と水龍


 ティティと二人、青く透き通る海の底を歩く。


「わあ、水の中なのに息ができるし、声も出せる! 不思議な感じだね!」


 ティティに抱かれて嬉しそうに辺りを見回す水龍に、鮮やかな魚たちが興味深そうに集まってきた。


「ここから少し暗くなります、お気を付けください」


 イソギンチャクの森を抜け、巨大な珊瑚のトンネルを通り抜ける。

 貝殻の灯火を掲げて先を泳ぐスピカは、ひどく急いでいるように見えた。美しい尾びれが幻影のように揺れる。


 次第に水が濁ってきた。進むにつれて、生き物の気配も途絶えていく。


 やがてたどり着いた、暗い海の底。

 岩と岩の間に身を押し込めるようにして、巨大な龍が蹲っていた。


「水龍……」


 ティティが掠れた声で呟いた。


 くらげの淡い光が辺りを照らし、大勢の人魚たちが、眠る水龍の回りを忙しなく泳ぎ回っている。


「スピカ、この方々は?」


「人間です。水龍の子を保護してくださいました」


 人魚たちは驚いたように俺たちを見つめた。


 水龍の魔力に目を懲らす。

 蛇のような胴体に巡るのは、透き通る紫の魔力――毒属性だ。


 毒属性そのものは、発現するのは極めて希ではあるものの、人間や他の生き物にも一定数存在する。毒も自然の一部だ。

 ただ、その魔力回路は瘴気に蝕まれていた。


 スピカが目を伏せる。


「水龍は太古の昔より、この海域周辺の魔物を喰らい、瘴気を呑み、自らの魔力へと返還することで、海の平和を守っていました。けれどある日突然魔力が暴走し、毒を吐いて海を汚染するようになったのです。今は私たちの歌で眠らせていますが……」


 苦しげに上下する水龍の背に、ティティがそっと手を当てた。


「苦しんでる……ずっと、海を守ってくれてたんだね」


 水龍の子どもが、親に鼻をすり寄せる。


 水龍が低く呻いた。

 瘴気に毒された魔力回路が濁り、不穏に蠢き始める。


「いけない、水龍が目覚めます! 離れて……!」


 人魚たちが細く高く、子守歌を歌う。


 しかし水龍は絡みつく拘束を振りほどくようにして首を擡げた。

 鱗に覆われた瞼が開き、不気味な光を帯びた双眼が現れる。

 長い喉が仰け反り、地に響くような咆哮を轟かせた。

 激しくのたうつ尾が岩を砕いて、人魚たちの悲鳴が渦巻く。


「だめ、私たちではもう押さえられない……!」


 水龍の子を抱いたティティを背に庇って、水龍の魔力へ意識を集中する。


 水龍は苦しげに身悶え、岩に身体を打ち付けた。食い縛った牙の間から、毒が漏れ出て海中へ溢れ出す。


(魔力が暴走してる――いや、誰かにそう仕向けられている?)


 何者かが水龍の魔力回路を食い散らし、毒を振りまく化け物へと変貌させている。生き物の在り方を歪め、根本から作り替える禁呪。こんなことが可能なのか。


 こみ上げるおぞましさを噛み潰し、低く静かに呼びかける。


「こっちだ」


 ぎらぎらと底光りする双眸が、俺を捉えた。


 水龍は鋭い牙を剥き出し、俺に喰らい掛かろうと唸りを上げ――


 射殺すようなその視線を、真っ向から受け止めた。


 水龍の動きが止まる。

 人魚たちがはっと息を呑んだ。


 獰猛に唸り、牙を剥く水龍を、視線で縫い止める。

 瘴気が巣喰う魔力回路――その奥深く。水龍の魔力を蝕み、操っている魔族と睨み合う。

 視線が重たい圧となってぶつかり合った。

 まばたきすら赦されない、危うい均衡。


 水龍が微かに身じろぎする。


 ほんの僅かに圧が緩んだ瞬間を逃さず、俺は水龍へ手をかざし――水龍がゆっくりと首を下げ、海底に伏せた。

 その額に手を宛がう。


「魔力回路をこじ開ける。辛いだろうが、耐えてくれ」


 低い唸りに頷いて、俺はスキルを起動した。


「『反転インバート』!」


 水龍が絶叫を上げてのたうつ。ばちばちと激しい火花が弾けて岩が崩れ、人魚たちが悲鳴を上げた。

 暴れ狂う水龍を押さえ込みながら、魔力回路に深く根を張った瘴気を取り込み、浄化していく。


 そして。


 海底に横たわった水龍が、ゆっくりと目を開いた。

 穏やかに俺を見つめる双眸は、透き通るような青を湛えていて。


 人魚たちが歓喜の声を上げる。


 ティティが、抱いていた水龍の子をそっと親の元へ差し出した。

 子どもは水龍の頬に身体をすり寄せ、水龍も優しく応えた。立派な角に巻き付いて、水龍の子がティティに向かってくるるる、と喉を鳴らす。


 感謝するように鼻先を擦りつける水龍に、ティティはくすぐったそうに笑った。


「覚えてるかな? 昔、ティティを助けてくれたんだよ。あの時はありがとう」


 安堵の息を吐く俺を見ながら、スピカが呆然と呟いた。


「他者の魔力に干渉し、そればかりか瘴気を払うなんて……あなたは一体……」

「ロクちゃんは勇者なんだよ」


 ティティの言葉に、スピカが息を呑む。

 人魚たちが涙ぐみながら俺の手を握った。


「ああ……! 貴方こそ、まさに私たちが待ち焦がれた、救世の英雄。本当にありがとうございます……!」


 水龍は魔族の支配から解放されたが、まだ問題は残っている。


「解毒薬の材料を――オーロラ珊瑚を取りに行きたいんだ」


 しかし、スピカは首を振った。


「まだ、海は毒されたままです。浄化されるまでには、長い時間が掛かります。オーロラ珊瑚の海域を侵す毒は、あまりに濃い。しばらくは近付かない方がいいでしょう」


 それでは間に合わない。


 毒の渦巻く深海を見渡す。

 『反転』は、海や大気といった広範囲の浄化はできない。何か方法を考えないと……――


「あれ、なんかちょっと、苦しくない?」


 ティティが首を傾げ、スピカがはっと口を押さえた。


「いけない、そろそろ薬の効果が切れます!」

「!?」


 慌てふためいていると、ぐい、と背中を押された。


「うわ!」


 水龍が俺とティティを頭に乗せ、水面を目指して泳ぎ始める。

 やがて海上に顔を出した俺たちを、リゼたちが涙ながらに迎えてくれた。


「ああ、ロクさま、ティティさま! ご無事で良かった!」

「心配させてごめん。みんな、異常はないか?」


 船に上がった俺に、フェリスが「ええ」と頷く。


「夢を見ていたの。とても幸せな夢で……」

「そうか。どんな夢だったんだ?」

「えっ? そ、それは、ええと……」


 リゼとフェリスが真っ赤になって俺から目を逸らす。


 首を傾げていると、シャロットが手を挙げた。


「シャロは、ロクにいさまといっしょに、ケーキを食べる夢をみました! きらきらしたケーキが、食べきれないくらいたくさんあって……!」

「わたしは、ロクと、馬で駆ける夢。草原がきれいだった」


 それは叶えてあげられそうだなと笑いながら、シャロットとサーニャの頭を撫でる。


 水龍は俺とティティに頬をすり寄せ、海へ潜っていった。


 船乗りたちが呆然と呟く。


「水龍が、人間に懐くなんて……」

「水龍は海を守ってくれていたんだよ」


 驚く船乗りたちに、ティティが懸命に説明する。


「毒を撒いたのは、魔族に操られていたせいなの。苦しんでいた水龍を、ロクちゃんが助けてくれて……」

「なんと、そんなことが……」


 ウォンたちが驚愕と感嘆を込めて俺を見つめる。


「でも、海の毒はまだ消えていません。浄化する方法を探さないと……――」


 遠く、毒に染まった海域に目を馳せた時。


『まさか、我が支配を解くとはな』


 氷のような声が響く。


 弾かれたように振り返った先、宙に女が浮かんでいた。

 長い黒髪に、おそろしく整った顔立ち。底知れない不気味さを孕んだ双眸。


 ――港にいた、あの女だ。




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【追放魔術教官の後宮ハーレム生活】の3巻が、2/19(土)に発売となります。


いつも温かく応援くださっている皆様のおかげです、本当にありがとうございます。


以下の特設ページのURLより、さとうぽて様(https://mobile.twitter.com/mrcosmoov)のかっこよすぎる表紙をぜひご覧ください。


■書籍版『追放魔術教官の後宮ハーレム生活』

ファンタジア文庫特設サイト【https://fantasiabunko.jp/special/202104harem/】


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