第98話 出航


 


 翌日。

 出航の準備が整うまで、リゼたちと一緒に、できる限り病人を診て回ることにした。


 一通り治療を終えて港に帰る途中、ティティがはっと立ち止まった。波が洗う岩場を指さす。


「ロクちゃん。あそこ、何か光ってる」


 近寄ってみる。

 岩陰に、青い鱗が見えた。


「魚かしら?」


 身を乗り出すフェリスの横で、ティティが息を呑む。


「水龍の子だ!」


 それは美しい鱗に覆われた龍だった。

 二本の角と、長いひげ。蛇のように長い胴。


 陽光に透き通る鱗を見つめて、シャロットが「きれい……」と呟いた。


 力なく横たわった身体を、ティティがそっと抱え上げる。


「弱ってる……」


 俺は水龍の背に手を当てると、魔力を流し込んだ。

 やがて、水龍がゆっくりと首を擡げた。

 俺とティティを見上げて、きゅいい、と細い声で鳴く。


「親とはぐれたのでしょうか」


 リゼが心配そうにその背を撫でる。


 ティティは水龍の子を抱いたままじっと俯いていたが、やがて顔を上げた。


「ロクちゃん。海の毒、水龍の仕業じゃないと思う」


 決然と紡がれる言葉に、黙って耳を傾ける。


「ティティね、小さい頃に海で溺れて、水龍に助けてもらったんだ。みんな、夢を見たんだって言うけど……」


 ――生まれ育った海が毒されて、故郷の人々が病に倒れていく。その原因は、かつて自分を助けてくれた水龍だと聞かされて。

 深い哀しみに揺れながら、それでも自分の信じるものを信じようと前を向く少女の頭を、俺はそっと撫でた。


「水龍を探そう。きっと、何か理由があるはずだ」


 ティティはくしゃりと歪みかけた顔を擦り、「うん!」と力強く頷いた。


 


 

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 昼過ぎになって、船に乗り込んだ。

 白い帆を掲げた巨大な帆船だ。


 忙しく働く船乗りに紛れて、水龍の子を入れた箱を抱えたティティが、こっそり船室へ降りる。


 俺はその姿を横目に確認しながら、積み上げられた箱のひとつを示してウォンに尋ねた。


「あの箱は何ですか?」

「魔石じゃよ。離島の奴らに届けにゃならん」


 魔石は、魔力を注ぎ込むことでお湯を沸かしたり灯りを灯したりできる、便利な道具だ。生活には欠かせないだろう。


 薬や生活必需品が積み込まれ、出航が間近に迫った時、不気味な地鳴りが響いた。


「身を低くして船縁から離れるのじゃ、海に投げ出されるぞ!」


 人々が甲板に伏せるのと同時に大地が揺れ、波が立つ。


 揺れは船を揺さぶり、マストを軋ませ、数分間続いた後ようやく収まった。


 ウォンが白い眉を顰める。


「最近多いのう」


 人々が積み荷の無事を確かめる中、リゼが立ち尽くしているのに気付いた。

 遠く、北の方角をを見つめる暁色の瞳には、怯えたような光がたゆたっている。


「リゼ? どうかしたか?」

「いえ、何でもございません! 私もみなさまをお手伝いしなければ!」


 リゼはぱっといつもの笑顔に戻ると、準備を再開した。


「さあ、帆を張れ! 出航だ!」


 港に船乗りの胴間声が響き、船が沖へと滑り出す。


 ふと、視線を感じて振り返った。

 心配そうに、あるいは期待を浮かべながら、船を見送る人々――その中に、黒髪の女がいた。


 はっと目を懲らす。


 均整の取れた細身の身体に、不自然な程に整った相貌。底の見えない鋭い双眸。

 そして何よりも。


(魔力が視えない……コロシアムにいたあの女・・・……――)


 身を乗り出した瞬間、女が赤い唇をつり上げ、その姿がふっと掻き消えた。


「……!」


 タールのような冷たく重たい視線が、まだ身体に纏わり付いている。

 俺は静かに、腰に提げたアンベルジュの感触を確かめた。


 船は波を切って進む。

 白い鴎が舳先に遊び、水面が太陽を反射してきらきらと輝く。船に寄り添うように泳ぐイルカの群れを見て、シャロットが歓声を上げた。猫のように身軽にマストに登って海を見晴るかすサーニャを、フェリスがはらはらと見上げている。


 俺はティティとリゼと共に、船室に降りた。


「これ、食べられるかな?」


 ティティが細かく刻んで練った魚を与えると、水龍の子は嬉しそうに食べた。

 あっという間に平らげると、今度はきゅうきゅうとか細い声で鳴き始める。


「お腹いっぱいになったら、お母さんが恋しくなっちゃったかな?」


 水龍を抱っこしてあやすティティに、リゼが尊敬のまなざしを送った。


「ティティさま、慣れていらっしゃいますね」

「よく弟たちの面倒を見てたからね。ティティのことも、こうやってみんなで育ててくれたから。ちっちゃい子もおおきい子もごちゃまぜで、泣いたり笑ったりけんかしたり、毎日が大騒ぎだったよ」


 懐かしそうな笑顔に、リゼが目を細める。


「みなさま仲が良くて、朗らかで、優しくて……とても素敵なご家族ですね」


 ティティは誇らしげに笑った。


 そして、数時間後。


「この先が、毒に汚染されている一帯じゃ」


 ウォンが緊張した面持ちで呟く。

 遠く水平線に、水面を覆うようにして濃紫の澱が蟠っていた。

 毒気を孕んだ風に、サーニャが顔をしかめる。


「風にのって、ここまで届いてくる。かなり強い毒」


 船乗りの一人が空を見上げた。


「おかしいな、霧が出てきた」


 気付くと、空に白い靄が掛かっていた。

 ふと耳をそばだてる。


「何か聞こえないか?」


 潮騒に混じって、遠く声が聞こえる。

 細く、尾を引くような女の声――


「人魚の歌だ!」

「早く引き返せ! 引きずり込まれるぞ!」


 船乗りたちが悲鳴を上げ、船上が一気に慌ただしくなる。


 歌は次第に近づき、いつしかはっきりと聞こえるようになっていた。

 霧が視界を遮っていく。


「ロクさま」


 振り返る。

 霧の中にリゼが立っていた。

 俺が口を開くよりも早く、リゼは俺の胸に柔らかな身体を寄せた。

 潤んだ暁色の双眸が、俺を見上げる。


「ロクさま、私、怖いです。なんだか嫌な予感がするのです。逃げましょう。何もかも忘れて、このまま二人で」


 冷たい手が頬を包んだ。

 桜色に艶めく唇が近づいて、甘やかな吐息が触れ――


君は誰だ・・・・・?」

「……!」


 リゼの姿をした少女の顔が引き歪む。

 つり上がった双眸で俺を睨み付けると、その姿がどろりと溶けた。

 幻影は春を迎えた雪のように溶け落ち、やがて見知らぬ少女が現れた。


 コバルトの右眼に、シトラスの左眼。緑がかった長い髪は濡れて、下半身は美しい尾びれを備えている。


「人魚……――」


 勝気な双眸が俺を睨む。

 人魚は船縁を乗り越えて、海へ飛び込もうとし――俺はその手を掴んだ。


「待ってくれ」


 振り向いた瞳に、静かに語りかける。


「俺たちを阻むのには、何か理由があるんだろう? 訳を聞かせてくれないか」


 人魚は何もかも見透かすようなまなざしで、じっと俺を見つめ――


「あっ、ロクちゃん!」


 霧の中、ティティが駆け寄ってきた。


「ティティ、無事で良かった」


 人魚が小さく「私の歌から、どうやって……」と、水鈴のような声を零す。


「すごくいい夢を見てた気がするんだけど、この子が起こしてくれたの」


 ティティの頬を舐めて、水龍の子が鳴いた。

 人魚はティティの腕に抱かれた水龍へ、驚いたような視線を注いでいる。


「俺はロク。君の名前は?」

「……スピカ」


 オッドアイの人魚――スピカはそう言って、船縁へ伸び上がった。


「……私に付いてきて下さい」

「でも、リゼたちは――」

「大丈夫。今は眠っていますが、ほどなく起きるでしょう」


 濡れた手が、俺とティティに蒼い小瓶を差し出す。


「これをお飲み下さい。人魚の秘薬です。一定期間、深海に適応できます。毒も、ある程度までは防げるでしょう」


 スピカは輝く海を背に、手を差し出した。


「こちらへ。水龍は海の底です」


 






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