第89話 地獄の番犬
振り返ると、主催者――モーリスが魔具を手に唾を飛ばしていた。
「誰も血を流さず、誰も憎み合うことなく、殺し合わない! こんなぬるい死合いで満足できるか! あれは一体誰の剣奴だ!?」
「わたくしよ」
殺伐とした闘技場に、涼しげな声が響き渡る。
高貴な百合のごとく首を擡げたオリヴィアを見て、モーリスが青ざめた。
「き、貴様っ! オリヴィア……ッ!」
「久しいわね、モーリス。五十年ぶりかしら? 相変わらずねぇ、と、言いたいところだけど……あなた、あの頃よりも、格が下がったのではなくて?」
どうやら知り合いらしい。
モーリスは色を失った唇をぶるぶると震わせている。
「くそ、くそ、くそおおおおっ! オリヴィア、この薄汚い売女め! 俺を愚弄するのもいい加減にしろ! おい、
激昂したモーリスが、コロシアムの最奥へ声を張る。
地下に続く入り口に嵌められた檻が、がらがらと重たい音を立てながら上がった。
湿った闇の奥から、獰猛な唸りが漏れ出す。
『言霊』の支配が解けた剣奴たちから、ひいいいっと悲壮な悲鳴が渦巻いた。
「出た、モーリスの
「嫌だ、嫌だ、喰われたくない! あいつに喰われるのだけは嫌だぁ!」
涎を垂らしながら進み出たのは、巨大な三つ首の犬だった。
黒い毛並みに、真っ赤に燃える眼。凶悪な牙の覗く口から吐かれる呼気はごうごうと黒い炎を巻き、俺の腕よりも太い爪が地面を掻く。
それも一頭ではない。
三つ首の怪物の群れが、およそ二十頭。
「魔物!?」
リゼが驚愕の声を上げる。
ケルベロスたちは観客に目もくれず、俺たちを睨み付けている。
(魔物を使役しているのか? そんなことが可能なのか……――)
これが、歴戦の冒険者たちを脅かし、追い詰めていたものの正体。モーリスはこの地獄の番犬を使って、敗者を喰らわせ、冒険者たちに恐怖を植え付けて、仲間殺しへと駆り立てていたのだ。
観客が歓喜に沸き、モーリスの笑声が響く。
「やれ! 今回は特別だ、勝者もろとも食い殺せ!」
ケルベロスの群れが唸りを上げ、たちまち俺たちを取り囲んだ。
「ひっ……ヒィッ……!」
怯える剣奴たちを背中に庇う。
俺は
「フェリス。
「!」
見開かれた翡翠色の瞳に、笑いかける。
「
フェリスは驚いたように俺を見つめ――「ええ」と口の端をつり上げた。
見惚れるような所作で魔導剣を引き抜き、叫ぶ。
「アザレア部隊、
姫たちが一斉に神器を展開し、身構えると同時。
ケルベロスの群れが轟くような唸りを上げ、地を蹴った。
『ヴガアアアアアアアアアアッ!』
フェリスが腰を沈めて呟く。
「ここから先は、手加減なしよ」
その全身に、眩い魔力が巡り――
「『
金色の稲妻が、ケルベロスたちの間を駆け抜ける。
凄まじい雷撃が迸り、たちまち五体を打ち砕いた。
「な、ぁっ……!?」
剣奴たちが、観客が、モーリスが。
黒い霞と化して消えて行くケルベロスを唖然と見つめる。
誰もが鮮烈な雷光に釘付けになる中、サーニャが跳躍した。
ケルベロスたちの遥か頭上、涼やかな声が響く。
「『
短剣が星座のごとき軌道を描いて、四体のケルベロスを貫いた。
短剣は金色の糸を手繰って、着地したサーニャの手元に戻る。
「わたしたちも続くわよっ!」
「アザレア部隊の実力、見せてやるんだからぁ!」
可憐な姫たちが恐れ気無くケルベロスへ対峙する。
魔術の光が花開き、眩い剣閃が閃く。獰猛に吼え猛る黒い群れに炎の矢が降り注ぎ、風の槍が穿った。
冴え渡る剣気と魔術の前に、名うての冒険者たちを脅かし続けた怪物が打ち倒されていく。
「な……これは、一体……」
ただの
――そう、本来であれば、簡単に囚われの身になるようなアザレア部隊ではない。
彼女たちは、対魔物の訓練を積んできたのだ。
魔物を一掃するだけの実力があったからこそ――
少女たちの勇姿に恐れを成したのか、一頭のケルベロスが標的を変える。
雄叫びを上げる赤い瞳が捉えるのは、スポンサー席に座すオリヴィアの姿――
「させません! 『
突進する黒い獣の前に、
魔力障壁を展開すると同時、掲げた盾で牙を受ける。
『ヴオオオオオオオオオオオオオ!』
太い牙が火花を散らし、凶悪な爪が魔力障壁を削るごとに、盾の輝きが増していく。
その輝きが最高潮に達した瞬間、
「『
暁の盾が、溜め込んだ
鮮やかな光が弾け、ケルベロスが吹っ飛んだ。
別の個体が怒り狂いながら牙を剥き――
「『
シャロットが魔術を発動、ケルベロスの足を凍らせ、地面に縫い止める。
「『
自由を奪われたケルベロスに、マノンの魔術が直撃。
凄まじい突風が炸裂して、背後に居た個体ごと屠った。
「こちらはお任せください!」
リゼの叫びに頷いた瞬間、俺に狙いを定めたケルベロスが咆哮と共に殺到する。
俺が身構えるよりも早く、フェリスの魔導剣とサーニャの短剣が交錯した。
漆黒の巨体が、断末魔の悲鳴を上げながら消滅する。
剣に纏わり付いた残滓を払って、フェリスとサーニャが鋭く告げた。
「私たちのロクさまに」
「触れるな」
貴賓席で、モーリスが「ひ……!」と顔を引き攣らせる。
みっともなく身を屈め、他の客を押しのけながら逃げようとし――
その時、最後の一体が咆哮を上げた。
『オ゛、ヴォオォオォォオ゛オオ……ッ!』
黒炎を纏った体躯がどくりと脈動し、めきめきと音を立てながら膨れあがっていく。
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