第90話 古代書
『ヴオオオオオオオオオオ!』
巨大化したケルベロスが天を裂くような唸りを上げ、土煙を巻いて走り出す。
真っ赤に燃える瞳が見据えるのは、貴賓席でうろたえるモーリスの姿──
「なっ!? なんでっ、やめろ、やめろやめろやめろ、来るなっ……ひぎゃああああああ!?」
鋭い牙がその頭を噛み砕こうとした、寸前。
「ふッ……――!」
俺は大剣を思い切り振りかぶると、渾身の力で投擲した。
風を巻いて放たれた大剣がケルベロスの巨体を消し飛ばし、モーリスの横に突き立つ。
「ひぅ……」
モーリスは白目を剥きながらくたくたと崩れ落ちた。
その身体から黒い靄が噴き上がる。
フェリスが息を呑んだ。
「あれは、瘴気……?」
瘴気が抜けるにつれ、モーリスの身体がみるみる萎んでいく。
やがて残されたのは、一人の老人だった。
生命力に漲っていた四肢は細く枯れ、しわだらけの皮膚は垂れ下がり、目は濁っている。
さっきまでの美青年の面影はない。
「あ、ぁぁぁ……は、早くっ、早く、
譫言のように呟きながらうつろな目を彷徨わせるモーリスに、近付く人影があった。
「噂は本当だったのね、モーリス」
「っぐ……! き、貴様、オリヴィアぁぁ……っ!」
「知り合いですか」
駆け寄った俺に、オリヴィアはいたずらっぽく笑った。
「私の三番目の夫よ」
驚く俺たちにをよそに、恋多き貴婦人は惨めな姿になった元夫を見下ろして息を吐く。
「若さに執着して禁呪に手を出すなんて、見下げ果てたものね。昔の貴方はもうちょっと、ほんの少しだけ、かっこよかったわ。反省することね」
オリヴィアが片手を掲げると、コロシアムに大勢の兵士がなだれ込んできた。
声を失うモーリスに、オリヴィアが艶然と笑う。
「わたくしの私兵は優秀なの。ネズミ一匹逃がさないわよ?」
モーリスは悄然と兵士に引っ立てられ、司会者やモーリスの部下たちも捕らえられていく。
ふと、貴賓席を見遣る。
謎めいた黒髪の女は、いつの間にか姿を消していた。
観覧席からシャロットが飛び出す。
「おねえさまがた! ご無事でよかったです!」
「まあ、シャロットちゃん! 助けに来てくれたのね!」
シャロットはフェリスに抱き付いて、「はい!」と大きな目をきらきらと輝かせた。
「シャロ、旅をしました! 冒険もたくさんしました! 飴をたくさん掴みました! シャロは、つよくなりました!」
少女たちは俺に抱き付き、手を握り合って、互いの無事と再会を喜んだ。
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アザレア部隊と合流した俺たちは、再びオリヴィアの屋敷に滞在することになった。
「今回の事件、おそらく魔族が噛んでいました」
全員が集まった応接室。
オリヴィアにそう切り出すと、姫たちが息を呑んだ。
「モーリスの横にいた、黒髪の女。魔力が視えませんでした。おそらく魔族かと」
オリヴィアが深緑の瞳を曇らせる。
「人間に擬態する魔族なんて、聞いたことがないわ。それに、人を若返らせる――生き物の在り方を歪める術を操るなど、よほど力の強い魔族ね。……おそらく、魔王に近い個体よ」
リゼたちの顔が緊張に強ばる。
傍で控えていた秘書官に目配せして、オリヴィアは微笑んだ。
「ありがとう。王宮にはわたくしから報告しておくわ。さあ、久々の再会なのでしょう? 好きなだけ滞在して、疲れを癒やしてちょうだい」
「ありがとうございます」
ひとまず解散しようとした時、オリヴィアが俺を呼び止めた。
「そうそう、これを貴方に」
しわ深い手が差し出したのは、古びた本だった。
革の装丁はところどころ剥がれ、文字も掠れている。
「これは?」
「モーリスのコレクションよ。やっぱり禁術に手を染めていたみたいでね。他にも色々と見境なく集めていたらしくて、没収した中に混じっていたの。――失われた古代魔術について記述された古代書よ」
目を見開く。
古代魔術――創世と共に生まれたという、すべての魔術の原初にして頂点。呪文と莫大な魔力、そして全ての属性が揃って初めて発動するという、誰にも扱えない究極の力。
「いいんですか?」
尋ねる俺に、オリヴィアは柔らかく微笑んだ。
「貴方にならば……いいえ、貴方にこそ、必要なものだと思うわ」
リゼたちが固唾を呑んで見守る中、古びたページを開く。
そこには見慣れない文字が並んでいた。
これが呪文だろうか?
マノンが押し殺した声で呟く。
「古代文字ですね。王宮の神官ならば、解読できるかもしれません」
「じゃあ、戻り次第見てもらおう――」
そう言いかけた、刹那。
本が淡い光を帯びた。
俺の魔力に呼応して、ふわりと浮かび上がる。
その輪郭がほどけて光の粒子と化した。
眩く輝き、美しくうねりながら、俺の胸へと吸い込まれていく。
「ろ、ロクさま……!」
やがて古代書は、完全に俺の中へと溶け消えた。
「今のは……」
ほのかに熱の灯った胸を押さえて呟く。
姫たちがあわあわと俺に縋り付いた。
「ロクさまっ、な、何か異常はございませんか!? 具合が悪いとかっ……!」
「いや……」
手のひらを見下ろす。
心臓の奥。温かい力が息づいているのを感じる。
だが。
喪失にも似た欠乏感が、胸にぽっかりと開いていた。
(何かが
強く確かに脈を打つ心臓を押さえて、小さく呟く。
「……全てを収めた者だけが扱える、古代魔術……」
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出立の日。
オリヴィアは笑顔で俺たちを送り出してくれた。
「貴方は小鳥たちの憩う大樹であり、群れを護り率いるただ一人の雄であり、どんなものでも受け入れる、優れた杯。その優しさと強さを、いつまでも忘れないでね」
礼を言い、帰路を辿る。
車いすの美しい貴婦人は、いつまでも手を振っていた。
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