幕間2-2 ある平凡な少女が呪いを解いて神姫になるまで2



 夕食を終えると侍女を退がらせ、香を焚き、キャンドルに火をともして灯りを落とした。


 胸元を押さえる手が震える。


 自分にはこれしかない。それ以外に価値はない。


 自分は勇者さまに身を捧げるため、この後宮にやってきた。


 ならば少しでも役に立つのだ。己の価値を示すのだ。


 ノックの音がする。


 どうぞ、と応じたいらえは小さく震えていた。


 扉がゆっくりと開く。


「……――」


 現れたロクは、入り口で立ち止まった。


 キャンドルの明かりが淡く灯り、甘い香りが立ちこめた部屋。


 ベッドの前で震えながら佇むベルを見て、異世界から来た勇者は優しく首を傾げる。


「誰か、外に控えていてもらおうか?」


 低く柔らかな声音に、不意に胸が詰まった。


 ここは夜の後宮で、彼は紛う事なきその支配者だというのに、包み込むような声もまなざしも、泣きたくなるほど優しい。


 そうだ、初めて会った時から知っていた。マノンに同席してもらおうかと提案したのも、入り口に立ったまま不用意に扉を閉めないのも、他でもない自分ベルのため。一人きりで迷子のように立ち尽くす少女を、万が一にも怯えさせないよう、怖くなったらいつでも助けを求められるよう。どこまでも優しい人なのだ。


 なぜか胸が苦しくて切なくて、その痛みを振り払うように首を振る。


「どうぞ、お入りください」


 ロクは静かに扉を閉めた。


 夜、キャンドルがほのかに照らす部屋に、二人きり。


 心臓が爆発しそうに鳴っている。


 大丈夫、簡単なことだ。ここは後宮。ただ一人の主に身を寄せて、腕を絡ませる。そうして、ドレスを滑り落とせば良い。顔やスタイルの不出来は、闇がうまく隠してくれるだろう。


 その先は――分からない。怖い。けれど、これしかないのだ。この人の優しさに応えるためには、これしか――


 そこまで考えて。


 ふと、冷たい予感が差し込んだ。


(あれ? 私……――おこがましいのでは……?)


 加速していた不安が、一気に現実に引き戻される。


 この人の優しさに報いるためには、身を捧げる以外に方法はない。そう思い込むままに、自室に誘い込んでしまった。だが、そもそも自分の身体に価値がなければ、お礼など成り立たないのではないだろうか……?


 頭に昇っていた血が、さーっと音を立てて引いていく。


 そうだ、身体でお返しするなんて、何を思いあがっていたのだろう。自分の身体にそんな価値などあるわけないのに! 満足いただけるような豊満な肉体も、喜んでいただけるような手練手管も持ち合わせていない、こんな無能な小娘の貧相な身体を差し出されたところで、困るに決まっているのに!


 どうかしていた。どうしよう、逃げ出してしまいたい。だから私はグズなのだ――


 とめどなく暴走する思考に、ふと、穏やかな声が差した。


「綺麗だな」


 びくりと顔を上げる。


 ロクの視線は、壁際に並んだ刺繍に縫い留められていた。


「ベルが縫ったのか?」

「あっ、あの、はいっ」


 母に教わった刺繍は、いつだってベルの心の拠り所だった。


 家から持ってきた作品や、後宮に来てから新たに作った作品。


 色とりどりの糸で縫い取られた小鳥や花、ちょうちょ、動物たちを愛おしむように、ロクが目を細めた。


「そういえば、刺繍や裁縫が好きだって言ってたな」


 はっと思い出す。


 数日前に行われた、『目通りの儀』の時。


 趣味を尋ねられて、刺繍だと答えた気がする。


 緊張しすぎていて記憶が曖昧だけれど、ロクは憶えていてくれたのだ。


 言い知れない喜びに目が熱くなる。


 後宮に詰める、百花繚乱の姫たち――身分も器量も飛びぬけた、選りすぐりの美姫たちに囲まれていながら、このひとは取るに足らない自分のことを、他愛ない会話を、憶えていてくれた。


 同時に、自分のことしか考えていない己が恥ずかしくて情けなくて、いたたまれなくなった。


「それで、相談って?」


 柔らかな声に促されて、びくっと顔を上げる。


「あ、そ、それがっ、あのっ……」


 つっかえるばかりのベルを、ロクはせかすこともせず、じっと耳を傾けてくれている。


「も、もしよろしければ、ハンカチに刺繍を入れさせていただきたくて……っ!」


 ひどく上擦った叫びだった。


 自分でも思いもかけない言葉だった。


 失態に次ぐ失態にめまいがする。


 やってしまった。わざわざ夜に呼び出して一体何を……しかも、自分の刺繍なんてたいしたものではないのに、迷惑がられるに決まっている……!


 けれど、ロクはちょっと目を見開いて、それから子どものように破願した。


「ありがとう、嬉しいよ」


 屈託ない笑顔に、心臓がきゅぅんと引き絞られる。


 慌てて部屋の灯りを付けた。


 おそるおそるハンカチを預かり、道具を取り出して、ソファに座る。


 馴染んだ針の感触にほっとしながら布を張り、するすると糸をる。


 慣れた柄ならば一刻ほどで出来る。


 最初は緊張で指がうまく動かなかったが、次第に調子を取り戻していった。


 刺繍には想いが大切なのだという母の言葉を思い出しながら、心静かに、一心に祈りながら針を刺す。


 この不器用な指先が紡ぐ刺繍が、大切な人を守ってくれるように。ひと針ひと針、願いを込めて。


 ふと顔を上げる。


 向かいのソファに座ったロクが、ベルの手元を見つめていた。


 その目元が淡く笑みを刷いていて、何か粗相してしまっただろうかと身を固くする。


「あ、あの、なにか……」

「いや、本当に好きなんだなと思って。魔力がぴかぴかしてるから」

「魔力が……?」


 ロクは「ああ」と笑って、ハンカチに刻まれていく模様に目を細めた。


「綺麗な柄だな」

「これは我が家に伝わる、伝統的な柄なのです。災いを跳ね除け、健やかにあって欲しいという願いが込められていて」

「柄によって意味が違うのか?」

「はい。ひし形を繋いだものは、強さと勝利を意味します。ですので、よく鎧の裏地に縫われます。丸を重ねたものは、愛と豊かさの象徴。これは豊穣の女神さまの紋様でもあるので、――」


 刺繍の話が出来るのが嬉しくて、思わず声が弾む。



 主要なパターンをひとしきり解説し、モチーフの説明に移ろうとしたところでハッと我に返った。


「す、すみません、こんなお話、退屈ですよね。私、昔から、しゃべるのがとろいと怒られて……」

「そんなことないよ。すごく興味深かった。それに、心地良くて、聞きやすい。初めて会った時から、言葉を大事に、丁寧に選びながらしゃべる子だなって思ってたよ」


 思いがけない言葉に胸が熱を帯びた。


 長いこと喉で詰まっていた何かが溶け出して、消え入りそうな声が、ぽろりと零れ落ちる。


「あの……母が、耳が遠かったものですから。父が亡くなってからも苦労したようで、それでも、縫い子として働きながら、女手ひとつで私を育ててくれました。刺繍も、母に教わって……」


 ロクはそうか、とベルの手元に柔らかなまなざしを注いだ。


「だからベルは、そんなに優しいんだな」

「優しい……ですか」

「いつも相手のことを考えてるだろう。傷付けないように、置いてけぼりにしないように。お母さんは君を想い、大切に育てて、君もそれに応えた。すごいことだよ。優しいっていうのは、とても難しくて、失いやすいものだから」


 ――ずっと、グズだと笑われてきた。


 伝えたいことはあるのに上手に言葉が出なくて、懸命に走っているのに追いつけなくて。いつだって、のろまの役立たずとそしられてきた。


 それをこの人は、優しさと言ってくれるのだ。


 視線が合えば涙がこぼれてしまいそうで、ベルは慌てて目を伏せた。


「そんなことを言われたのは、初めてです。私、何の取り柄もなくて……だから、魔術を使えて、びっくりしました。六歳の時に受けた『聖授式』では、魔力はほとんどないと言われていたので。スキルだって、ひとつもなくて……」

「スキルがない?」


 はい、と恥じ入るように首を竦めると、ロクは首を傾げた。


「スキルって、どうやって調べるんだ? 俺の時は、『女神の慧眼』っていう紙? で調べてもらったんだけど」


 ベルは「とんでもない」と首を振った。


「『女神の慧眼』は、特別な魔具。私たち庶民は、もっと簡素な道具を使います。六歳になる歳に『聖授式』を受け、『天見の水晶』額にかざすのです」

「額に……」


 ロクはベルの手元を見詰めて、じっと考え込んでいるようだった。


「そうすると、後から発現したか、もしくは測れなかったか……」

「測れなかった?」


 ロクは頷いて、ベルの手を示した。


「ベルの魔力は、指先に集中してるんだ」

「……――」


 針を持つ自分の手に視線を落とす。


 幼い頃から母を手伝い、水仕事でささくれ立っていた指。不器用だけれど願いを込めて、針と糸を繰り続けた指……――


 ロクは壁際の刺繍たちへと眩しそうなまなざしを送った。


「ベルが縫った小鳥も、花も、魔力を帯びてる。柔らかくて綺麗な色だ。ベルには特別な力があるよ。だって、こんなに綺麗で優しい模様世界を生み出せるんだ」


 無地の布に刻まれつつある刺繍を見つめて、ロクが笑う。


「まるで魔法だ」

「……魔、法……」


 堪えていた一粒が零れると、もうだめだった。


 涙があとからあとから溢れては、ハンカチに落ちていく。


「ごめんなさい。私……わた、し……」


 なぜこんなに涙が出るのか分からなかった。


 指が震える。胸が熱くてたまらない。


 ロクは隣に座ると、わななく背中をそっとさすってくれた。


「ベル。ゆっくりでいいんだ。気負う必要はない。君には君のペースがある。焦らなくていいよ。どんなに辛くても、君は優しさを手放さなかった。それは君の強さだ、かけがえのない力だ。どうか誇って、自分を大切にしてほしい」


 凍えた身体に、温かな声が染みこんでくる。


 この人はきっと、何もかも分かっていたのだ。


 ベルを苛む焦りも、ずっと抱えてきた悲しみも、深い所に繰り返し受け続けてしまった呪いも。すべて分かった上で、静かに寄り添うことを選んでくれた。


 声が詰まる。


 それでも、これだけはどうしても伝えたくて、しゃくりあげる吐息の合間に言葉を紡ぐ。


「私、嬉しかったんです。生まれて初めて魔術を使えたこと、みんなと喜び合えたこと。ロクさまが名前を憶えていてくださったこと、優しく微笑みかけてくださったこと。全部全部、嬉しかったんです」


 だから報いたかった。食用うさぎコーニーなりのお礼がしたかった。


 けれど。


「その言葉だけで十分だ」


 噛みしめるような声にまた、涙が溢れた。


 この身を捧げずとも。大切なものを犠牲にせずとも。


 嬉しいという気持ちだけで十分なのだと、自分を大切にしていいのだと、優しい声が教えてくれる。


 背中を撫でる温かくて大きな手が、心を縛っていた呪いを、ゆっくりと解いていく。


 何の取り柄も、価値もない。生まれてこなければ良かった命。


 ずっとそう思っていた。


 けれど自分の力は、指先に、言葉に、胸に、確かに宿っていた。


 ベルはロクの肩に身を寄せながら、重たく頑丈な枷から自分を解き放つように泣き続けた。




 ――そう。踏みにじられ、傷付き続けたベルが、ようやく自分を大切にすることを憶えた、その数ヶ月後のことだった。



 あの子・・・と再会したのは。




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さとうぽて様(https://mobile.twitter.com/mrcosmoov)の描かれる麗しいフェリスとカナデが目印です!

書き下ろしエピソードもございますので、

ぜひお手に取っていただけると嬉しいです!

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