第68話 暁の乙女
◆ ◆ ◆
「っ……!」
リゼは震える脚で立ち上がった。
盾を握る手に力を込め、汚れた頬を拭う。
「私……私はっ……!」
真紅の瞳が燃え上がる。
愛する勇者が思い出させてくれた温かな魔力が、指先まで行き渡る。
シャロット、と心の中で呼びかける。
可愛いシャロット。
遅くなってごめんなさい。
あなたに見せたい景色があるのです。
咲きこぼれる花や、どこまでも続く草原。夕陽を呑み込んで、燃え立つような水平線。夜空を鮮やかに彩る花火。
世界を旅しながら、美しい景色に出会う度、隣にあなたがいたらと、何度思ったことか。
共に歩みたい未来があるのです。
――会わせたい人が、いるのです。
目の前に、
あの人はいつだって勇気をくれた。暗闇に惑うばかりだった私を、光差す方へ導いてくれた。
あの温かい背中について行くばかりの自分ではありたくない。あの逞しい腕に護られるばかりの自分では、ありたくない。
あの人のように、優しく、強くありたい。大切な人をこの手で護りたい、救いたい。共に肩を並べ、胸を張って誇れる自分でありたい。
胸の奥が熱く熱を帯びた。
手にした盾から、光が溢れ出す。
溢れる熱に呼応するように、頭の中に声が響く。
山の稜線を黄金に染める朝陽や、降り注ぐ木漏れ日に似た、輝かしくも柔らかな声が。
【闇を払い、夜明けを告げる一筋の予兆。遥か天空から差し染める、祝福の光。我が名は暁。汝の道に光をもたらす者】
気高く眩い、勇者の往く道を拓く、護りの乙女。
その名は――
「神器解放! 『
目覚めた
捜し続けた、ただ一人の妹、シャロット。
今度こそ、あなたを護る。
絶対に、あなたを取り返す……――!
◆ ◆ ◆
四肢に巻き付いた茨がギチギチと軋みを上げる。
引き裂かれた肌から血が
「ッ……!」
『少しは骨があったが、所詮は人間。この
魔族の顔が間近に迫る。
その頭が、蕾のようにゆるりと開いた。
大輪の薔薇の中、不気味に並んだ牙が濡れた光を放ち――
「う、ぁぁあああああああッ!」
『!』
叩き付けるような咆哮に、ラムダがはっと視線を走らせる。
その先には、盾を携えたリゼが迫っていた。
『無駄だ! 武器も持たない小娘に何が出来る――!』
ラムダが茨を放つよりも早く、リゼの口から美しい真名が迸った。
「神器解放! 『
リゼの呼び声に応えて、光の盾が花開く。
リゼを中心に清らかな風が逆巻き、淀んでいた空気が一瞬にして澄み渡った。
『な、ぁッ……!?』
ラムダの顔が引き攣る。
『神器、だと……!? なぜ、勇者でもないお前が……ッ!』
神器を警戒したのか、ラムダが飛び退ろうとし――俺は腕に巻き付いた茨を掴むが早いか、渾身の力で引き寄せた。
『ッ!?』
ラムダの身体が傾ぐ。
その双眼が驚愕に見開かれた。
『まさか、勇者を、囮に……っ!?』
ようやく気付いたらしいラムダに、口の端をつり上げてみせる。
答える代わりに茨を強く手繰り寄せ、地面に縫い止めた脚に力を込めた。
『ひッ……! は、離せ! 離せぇぇぇっ!』
戦くラムダに向かって、リゼが大きく盾を引く。
その身体の内側で、赤く透き通る魔力が眩く膨れ上がる。
ラムダの顔が引き攣った。
『ッ、待て、待てっ、待てぇぇェっ……!』
リゼは構わずその身に光の盾を叩き付けると同時、勇ましく叫んだ。
「その光を以て、天に至る道を拓け! 『
刹那、咲き乱れる花のように光が爆ぜた。
『がっ、あ、あああああああああああああああ……!?』
幾重にも展開した光の花が凄まじい衝撃波となって、ゼロ距離からラムダを吹っ飛ばす。
茨の腕が引き千切れ、漆黒の硬皮に亀裂が走った。
「ロクさま!」
リゼの合図と共に地を蹴る。
『くそ、くそォォオオオオッ!』
まさか盾でぶん殴られるとは思っていなかったのだろう、ラムダが虫のように這って身を起こそうともがいた、一瞬。
俺の魔力をたっぷりと吸い上げた剣が、その横っ腹に食い込んだ。
『う、がァアあぁァア……っ!』
胴を半ばまで切り裂いた刀身を、ラムダは震える手で掴んだ。
『こ、の、よくも、よくもォ……! 許さん、許さんぞ、矮小な人間どもめがぁぁぁぁ! 貴様ら如きが、このラムダを斬れると思うてかァァァアアア!』
黒と白銀の火花が散り、ぎちぎちと軋んだ悲鳴が鳴り響く。
柄を握る手に力を込めて、俺は吠えた。
「
全身に白銀の魔力が巡る。
刀身が眩く輝き、黒い硬皮にめり込んでいく。
『が、あ、あ、ああああッ!?』
赤い口蓋から絶叫が迸り、灼眼が恐怖に見開かれた。
『な、なんだ、この魔力量ッ……! 貴様、一体、ィィ……っ!?』
白銀の剣が肉に潜り込み、その身を切り裂いていく。
『ひっ、……ひィっ……! まさ、か、私がッ……この私が、人間ごときに、ぃィっ……!』
白銀と漆黒の雷嵐がばちばちと荒れ狂う。
『まだ、まだだァッ……! こんなところで、くたばるわけにはァっ……!』
「参ります、ロクさま!」
見苦しく足掻くラムダを遮って、凜とした声が響く。
ラムダがはっと視線を走らせる。
その瞳に映るのは、光の盾を手に、迷いなく距離を詰めるリゼの姿――
ラムダの顔が引き歪んだ。
『やめろ、やめろやめろやめろやめろやめろやめろォォオオ!』
リゼはアンベルジュに盾を押し当てた。
その唇から麗しいまでの詠唱が迸る。
「『
「お、おおおおおおおおおおおおおッ!」
衝撃が炸裂すると同時、俺は大きく踏み込むと、渾身の力でアンベルジュを振り抜いた。
『ヒッ、ギ、ア゛ァ、痛い、痛い゛痛い痛い痛い゛ィィッ、ああァ、あぁアあぁ゛あああ゛あ……!?』
白銀に燃える刀身が肉を切り裂いていく。
ラムダの口から凄まじい断末魔が迸り――上半身がどさりと落ちた。
無様に転がったそれは、黒い瘴気を噴き上げ、やがて跡形もなく消え去った。
地面を埋め尽くしていた茨がぼろぼろと崩れ、蝶が風に散っていく。
リゼが「ああ……!」と感極まったように小さく呟いた。
「ロクさま、私……」
「ああ。よく頑張った」
リゼは微かに泣き笑いのような表情を浮かべたかと思うと、ふらりとよろめいた。
俺はそのままへたり込みそうになったリゼを支え――
「シャロットちゃん!」
ティティの悲鳴に振り返る。
崩壊する茨の海に、シャロットが倒れ伏していた。
「シャロット!」
リゼと共に駆け寄る。
シャロットはまるで糸の切れた人形のように、力なく横たわっていた。その双眸は光を失い、輪郭は黒く溶けようとしている。
「ああ、そんな……! いやよ、行かないでっ……お願い、シャロット……!」
崩れ行く妹を、リゼが縋るように抱く。
「っ……!」
俺はシャロットの胸に手を当てた。
リゼが命を賭して守ろうとし、離れ離れになってなお愛し続けた、大切な
このまま失わせはしない。
大きく息を吸い、イメージを膨らませる。
琥珀の瞳をした勇者が授けてくれたスキル――
「『
『グ、ガァァァアァアア!』
反転を発動させると同時、シャロットが弓なりに仰け反り、喉を裂くような悲鳴を上げた。
もがいた爪が腕を裂く。
それでも歯を食い縛りながら、シャロットの魔力を蝕む瘴気を吸い上げる。
「……っ!」
凄まじい濃度の瘴気に、全身の魔力回路が軋みを上げる。
それでも構わず瘴気を取り込み、魔力へと変換し、再び流し込んだ。
『ギャァァァ゛アアア゛アァアア!』
「シャロット!」
苦しみ悶える身体を、リゼが泣きながら抑え込む。
頼む、耐えてくれ……!
体内で瘴気と魔力が激しく渦巻き、耳を塞ぎたくなるような絶叫が鼓膜を揺さぶる。
フェリスたちが蒼白な顔で見守る中、永遠にも思える時間が過ぎ──やがて崩れかけたシャロットの身体から、一羽の黒い蝶が飛び立った。
フェリスがはっと息を呑む。
「身体が……」
シャロットの身体を覆っていた漆黒の皮膚が割れ、剥がれ落ち、それは蝶の大群となって舞い上がった。
最後の一羽が飛び立ち、蝶たちの輪郭が脆く溶け去ると同時、シャロットの身体から白く眩い光が溢れ――
全てが消え去った後。
草原に、リゼによく似た少女が横たわっていた。
透けるように白い肌。色素の薄いくるみ色の髪。小さな身体には、清らかな雪の色をした魔力が流れている。
誰もが声を失う中、薄いまぶたが、ふっとほどけた。
柔らかなはしばみ色の瞳が、リゼを見上げる。
「……ねえ、さま……?」
か細く、けれど清らかに澄んだ声だった。
「シャロッ、ト……!」
リゼは泣きながら妹の身体を抱きしめた。
「シャロット……! ああ、シャロット! ごめんなさい、私……私……っ!」
「リゼ、ねえさ、ま……やっと、会えたぁ……」
細い手が、わななく背中をそっと抱いた。
「あのね、ねえさま……」
リゼを見上げて、少女は日だまりのように微笑んだ。
「あの時、わたしを守ってくれて、ありがとう……」
リゼの瞳から涙が溢れる。
リゼは愛おしい妹の身体を、その身に刻み込むように力いっぱい抱きしめた。
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