第67話 剣と盾
『ヴガア゛アアア゛ア!』
ひび割れた咆哮と共に、シャロットが地を蹴った。
烈風を巻き、黒い弾丸となってティティへと迫る。
「シャロット! やめて、お願い!」
リゼの悲鳴は届かない。
立ち竦むティティの前に、黒い腕が振りかざされ──
「ティティ!」
ギィンッ! と甲高い金属音が響き渡った。
振り下ろされた爪をアンベルジュで受け止めながら、俺は歯を食い縛った。
『ゥヴ、ヴァ、アァア゛アァ……!』
地を這うような呻きが鼓膜を震わせる。
シャロットの赤い双眸に理性の光はなく、ただ底の見えない絶望が蟠っていた。
『ア゛アぁアア゛ア゛ア!』
「ッ、く……!」
凄まじい力に、アンベルジュがぎちぎちと
下手に弾き飛ばせばシャロットを傷付ける。
ひとまず距離を取ろうと、俺は膝を矯め──シャロットの死角からサーニャが飛び出した。
「すこしだけ、眠ってて!」
しかし首筋に手刀を叩き込む寸前、シャロットが跳び退った。
追い縋ろうとしたサーニャの足元から、黒い蝶の群れが舞い上がる。
「っ……!」
「退がれ、サーニャ!」
サーニャを抱いて地面に身を投げ出すと同時、蝶の幕を突き抜けて、黒い鞭がそれまでサーニャの居た空間を貫いた。
「……ッ!」
狙い違わず放たれた二本のそれは、凶悪な棘に覆われた太い茨だった。
両手から伸びた
『なかなかいい勘をしている。だが、どこまで保つかな』
悦に浸るラムダの姿を、蝶たちが覆い隠す。
「待て、ラムダ!」
「逃げるな、卑怯だぞっ!」
俺の光刃とティティの
『はは、はははは。さあ、足掻け、もがけ、泣き叫べ。極上の
耳障りな哄笑に呼応するように、周囲の花園がざわざわとざわめく。
黒い蔓が蛇のように這い出るや、一斉に殺到した。
「くっ……!」
手足に絡みつこうとする蔓を俺とフェリスで切り払い、鋭い翅で切り刻もうと急降下してくる蝶をティティが撃ち落とす。
次から次へと湧き出る蔓に、フェリスが引きつった声を上げた。
「っ、だめ、キリがないわ……!」
その背後に迫った蔓を切り裂きながら、俺は視線を走らせた。
早く
『ヴ、ア、ア゛ァア゛ァァ゛アッ!』
「!」
ひび割れた叫喚に振り返る。
シャロットがサーニャに襲い掛かっていた。
「サーニャ!」
「こっちは、大丈夫っ……!」
捨て身にも見える猛攻を、サーニャは短剣で何とかいなしている。
『ア゛ァヴッ、ア゛ァ゛アァアア゛ァアッ!』
悲鳴にも似た咆哮が響き渡る。
シャロットは長い爪を振り回し、もがくように地を蹴り、まるで手負の獣のようにがむしゃらに突進する。
形振り構わず襲いかかるその姿は、苦しみに悶える姿にも似ていて――
「やめて、お願い、シャロット……! ああ、ごめんなさい、私……私……っ!」
鳥籠に囚われたリゼが、掠れた声を振り絞る。
その周囲に、ばちばちと黒い火花が散った。
背中に刻まれたアザがざわめき、手足へ広がっていく。
「私……私の、せいで……私が、あの時、守ってあげられなかったから……!」
リゼが声を震わせながら、茨の檻を強く握り締める。
細い手に赤い雫が滴り――俺はリゼのもとへと身を翻していた。
「フェリス、ここを頼む!」
「ええ!」
俺の背を追って、黒い蔓が群がろうとし――
「させないわ!」
魔導剣の一閃が、蔓を霧散させる。
背後をフェリスに預けて、俺は鳥籠に駆けつけた。
「離れろ、リゼ!」
横薙ぎの一閃で檻を引き裂く。
瞬時に再生した茨が、壁となって立ちはだかり――
「邪魔だ!」
アンベルジュにありったけの魔力を流し込んで、茨に叩き付ける。
大出力の魔力に回路が一瞬でショートして、茨の壁がばらばらと解けた。
「ロクさま……」
リゼは茫洋と座り込んだまま、俺を見上げた。
凍えたように震えるその姿は、まるで怯える子どものようで。
「リゼ」
膝を付き、細い手を取る。
俺は傷付いた指先を握る手に、そっと力を込めた。
「リゼが歩んできた道は、間違いじゃない。リゼの勇気に、優しさに、何度も助けられてきた」
この小さな手で、リゼは何度も俺の背を押してくれた。リゼの柔らかな笑顔に幾度となく救われてきた。
この手には人を救う力があるのだと、その想いが伝わるよう祈りながら、暁色の瞳を覗き込む。
「大丈夫だ。リゼがどんなにシャロットを大切に想ってるか、ずっと見て来たから。リゼの想いはちゃんと届く。届けてみせる」
リゼの顔がくしゃりと歪む。
この少女が抱える痛みを少しでも引き受けたくて、俺はか細いぬくもりを抱き締めた。
「今も昔も、君は勇敢で優しい女の子だ」
「っ……!」
小さく、嗚咽を噛み殺す声がした。
細い手が俺の背に縋り付く。
腕の中で震える少女に、俺は静かに告げた。
「リゼは一人じゃない。俺が──俺たちがついてる。一緒に、シャロットを取り戻そう」
腕を解き、笑いかける。
「俺たちならできる」
絶望に染まりかけていた暁色の双眸に、光が宿る。
魔の力に蝕まれようとしていた細い身体に、清らかな魔力が通う。
リゼは涙に濡れた瞳に決意を込めて頷いた。
「はい……!」
手を取り立ち上がる。
唸りを上げながら襲い来るシャロットを食い止めながら、サーニャが叫んだ。
「大丈夫、リゼの
その身に迫ろうとした蔓を、フェリスが切り裂いた。
「ロクさま、リゼさま! こちらは任せて、ラムダを!」
盾を携えたリゼと視線を交わし、頷く。
黒く蠢く蝶の壁を睨み付ける。
目指すはただ一つ。
ラムダをぶちのめして、シャロットを救い出す。
俺はアンベルジュを構えると吠えた。
「ティティ、頼む!」
ティティが「りょーかいっ!」と応じて、蝶の帳へと指を向ける。
「いっくぞぉ、特大ッ――『
一直線に放たれた蒼い流星が群れに着弾、爆風が蝶を吹き飛ばす。
引き千切れた壁の向こう、ラムダが姿を現した。
「いくぞ、リゼ!」
「はい!」
道が拓かれた一瞬の隙を縫って、俺とリゼはラムダへ肉迫した。
『我が檻を破るとは、忌々しい勇者めが!』
ラムダが茨の両腕をかざす。
鞭となって迫り来る荊棘を、リゼの盾が弾いた。
『チィッ、小癪な……!』
攻撃が逸れた瞬間を狙って、剣を繰り出す。
狙い違わず穿たれた一閃を、けれどラムダは蝶のようにひらりと躱した。
「くッ……!」
斬撃がぶつかり合う。
茨の鞭が乱れ飛ぶ中、剣と盾、交互に
襲い来る茨をリゼの盾が防ぎ、白銀の切っ先が魔族の表皮を削る。視界を塞ごうとした蝶をリゼが炎魔球で蹴散らし、俺の放った光刃がラムダの肩をわずかに抉る。
だが届かない。あと一歩。
『く、はははは! 所詮はその程度か!』
甘い香りに脳が痺れる。
茨の鞭が頬を掠めた。
鋭い痛みに、俺は顔を歪め──刹那、死角から迫ったもう一本の茨を、辛くもリゼの魔術が防いだ。
「
ラムダの顔が忌々しげに歪む。
『引っ込んでいろ、小娘がァ!』
太い茨が鞭のようにしなった。
リゼが盾ごと弾き飛ばされる。
「リゼ!」
リゼに気を取られた一瞬。
刀身に茨が絡みついた。
「ッ……!」
振り解く暇もなく、あっという間に四肢を絡め取られる。
「ぐ、ッ……!」
戒められた手足に棘が食い込んだ。
赤い双眸が愉悦に歪む。
『はははは! 勇者とは言え、所詮は人間! 呆気ないものだな! さァて、どう
ラムダはこれから起こる叫喚を味わうように舌なめずりし──その悦に入った姿に、ふ、と目を細める。
ああ、俺しか見えてないんだろう。
腕に食い込んだ茨の感触を確かめながら、俺は込み上げる笑みを噛み殺した。
残念だったな。本命は俺じゃない。
お前が取るに足らないと切り捨てた、彼女こそが切り札だ、ラムダ――
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