第64話 反転

「『反転インバート』」

「っ、げほ……!」


 奏が反転スキルを使った瞬間、魔力回路を蝕んでいたキラー・ビーの毒が一気に浄化された。


 全身からどっと汗が噴き出す。毒からの浄化、そして微回復バフへの反転。急激な変化に、心臓がばくばくと脈打っている。


 なるほど、と顎に伝う汗を拭う。


 少し分かってきた。


 汚れた魔力を一度取り込んで、浄化し、増幅し、相手に戻す。原理さえ分かればトレースできそうだ。


「よし。もう一回頼む」


 俺は大きく息を吸って、再びキラー・ビーの針を腕に刺そうとし――細い手がそれを押しとどめた。


「いくら反転させるからって、勒さんの身体が心配です。何故こんな無茶を?」

「…………」


 状態変化ステータス異常を逆転させるスキル、『反転』。強力なスキルであることは間違いない。奏がオーガを自壊させたように、バフやデバフと組み合わせることで、戦略の幅が圧倒的に広がる。


 ――何より、これを応用させれば、リゼに植え込まれた『魔の種子』を浄化できるかもしれない。


 俺は手の中の針を見詰めた。


「少しでも手数を増やさないと。俺には『魔力錬成』しかないから」

「充分でしょう。魔力を無限に錬成し、自在に操る。この世界において、それは唯一無二の力です」


 俺の『魔力錬成』スキルを明かした時、カナデは瞬時に有用性に気付いたらしい。


「それは間違いなく、この世界の根幹を覆す最強のスキルです。世界を救う力と言ってもいい。――それでいて、貴方は個の力に溺れなかった。自身の力を惜しみなく少女たちに分け与え、使い方を教え、育てた」


 星を宿して煌めく双眸が、俺を見詰める。


「貴方に敬意を。貴方こそが、この世界が待ち焦がれた真の勇者なんだと、オレは思います」


 勇者の少女が紡ぐ言葉は、どこか祈りに似ていて――奏はふっと視線を逸らすと、目を伏せて笑った。


「オレは、勇者としての責任を、全て投げ出してしまったから……」

「……――」


 こうして手を伸ばせば触れそうな距離で見ると、奏が年若い少女であることが分かる。


 たき火に照らされた肌はきめ細かく、長いまつげが頬に影を落としている。丸い額も細い顎も、女性特有の柔らかさを持っている。


 遠目に見た時には、男にしか見えなかったのに――いや、それが、彼女が背負ってきた覚悟なのだろう。見知らぬ世界に召喚されて、わずか数時間で、パルフィーを守るため旅に出ると決めた。少女でいることを捨て、男として生きる道を選んだ。そして王宮を出た今も、その細い背中に世界を背負い続けている。


 白い肌に刻まれた無数の傷が脳裏に蘇って、俺は口を開いた。


「奏は、勇者であることを投げ出したんじゃない。パルフィーを守りながら、たった二人、戦い抜いてきたんだろう。それはとても勇気ある行動で、尊い決断だ」


 琥珀色の瞳を覗き込んで、告げる。


「奏は間違いなく勇者だ」

「……――」


 奏はしばし驚いたように俺を見詰めていたが、ふっと目元を緩めた。


 リゼたちの寝顔へ視線を送る。


「……彼女たちが、貴方を慕う理由が分かりました。――私も、もっと早く、貴方と出会いたかった」


 独り言のようにそう言ってはにかむ。


 遠く、世界を越えて巡り会った、同郷の勇者。


 差し伸べられる手もなく、ただ一振りの槍と獣人の少女を拠所に、今も世界を流離い続ける少女。


 もしももっと早くに出会えていたら、その不安や孤独に寄り添うことが出来ただろうか。


 奏、と名を呼ぶ。


「何かあれば、俺を頼ってくれ。どこにいても、必ず駆けつける。君はもう一人じゃない。俺が、俺たちが、きっと力になる」


 約束するよ、と噛みしめるように告げると、奏は眉を下げて笑った。


 これまで見せてきた大人びた表情とは違う、どこか泣きそうな――それでいて初めて安らぎを知った子どものような笑顔を浮かべた奏は、ようやく年相応の少女に見えた。


「これを」


 細い手が、何かを差し出す。


 それは蝶のような形をした、黒い欠片だった。


「少女を攫う魔族――『驕佚きょういつのラムダ』の元に繋がる鍵だと言われています。オレでは辿り着けませんでした……貴方に――貴方がたに、託します。願わくば、大切な人のもとへ続く道が拓けますように」

「……ありがとう」


 祈りに似た言葉とともに託されたそれを、俺は確りと受け取った。





***********************





 次の日。


 朝食を終えて、荷造りに取りかかる。


 少し離れた川で食器を洗っていると、足音がした。


 振り向くとフード姿のパルフィーが立っていた。


「どうした?」

「……カナデが、貴方と話してみたらって」

「そうか」


 パルフィーは隣にしゃがみ込むと、桶に入った食器を手に取った。


「これ、洗えばいいの?」

「ありがとう、助かるよ」


 森に、かちゃかちゃと食器の音が響く。


「あー、ええと……パルフィーは、好きな食べ物とかあるのか?」

「特にない」

「じゃあ、嫌いな食べ物は?」

「別に、何でも食べる」

「そうか」


 川を渡る風に、木々がざわめく。


「昨日は助かったよ。回復魔術もスキルも、たくさん使えるんだな」

「あんなの、全然たいしたことない」


 素っ気なく答えるその姿を見下ろす。


 ローブに包まれた肩は細い。フードから覗く整った横顔は、まだあどけなさを残している。顔に落ちた影の中で、伏せられたトパーズ色の瞳が揺れていた。


 風が強く吹いて、小さな葉がパルフィーの頭に落ちる。


「葉っぱが――」


 俺はフードに手を伸ばし――パルフィーがびくりと俺を見上げた。


 身を庇うように腕を上げ、大きく開いた瞳孔で俺を見詰める。


 怯え切った動物のような仕草に胸を突かれる。


 獣人は迫害されていると、昨日パルフィーは言った。彼女がこれまでどんな仕打ちを受けて来たのか、その一端を垣間見た気がした。


 ごめん、とできる限りゆっくりと、穏やかな声で告げる。


「驚かせたな」

「……別に」


 冷たい水にさらされて赤くなっているパルフィーの指先を見ながら、俺は口を開いた。


「もうディアナはいない。もしパルフィーが望むなら、戻っても大丈夫なように、取り計らっておくよ」


 けれどパルフィーは首を振った。


「別にいい。旅の生活も気に入ってるし。……それに、私の存在は火種になるから」

「……そうか」


 その細い肩に目を落とす。


 平穏な日々に戻るには、この子に背負わされた枷は重すぎる。


 パルフィーはしばらく口を噤んでいたが、「でも、カナデは……」と掠れた声で呟いた。


 それきり押し黙る。


「……奏には、幸せになって欲しい?」


 詰まっている言葉の先を継ぐと、パルフィーは小さく頷いた。


「……カナデは、自分を犠牲にしすぎる」


 ぽつりと落とされた言葉は、ひどく掠れていた。


 まるで幾度もなぞられた文字のように。


「カナデを召喚したあの日……神託だって嘘をついて、神官も将軍もみんな追い出して、勇者なんか来なければ良いのに、早く聖女なんて役目から解放されたいって想いながら、一人で召喚の儀式をした。――現れたのは、可愛い女の子だった。綺麗な髪をした、私と同じくらいの女の子だった。びっくりして、でもなんだか安心して、泣いちゃって。泣きながら全部話したら、カナデがいきなり髪を切って、篝火にくべたから……私……わた、し……」


 瞳に溜まった涙を、けれどパルフィーは一滴も零すまいとするかのように、強く唇を噛んだ。


「私なんかのために、何もかも捨てて旅に出ることはなかった。あの綺麗な髪だって、燃やすことはなかった。私のせいで、カナデを巻き込んでしまった。……――私には、何も返せるものはないのに」


 声を詰まらせ、フードを掻き合わせて縮こまる。


 まるで世界から身を隠したがっているように。


 ああ、と泣きたくなるような苦しさが胸を締め付けた。


 ――パルフィーは、何も持っていない自分を、生まれながらに火種となってしまっている自分を、そして奏の優しさに報いる術がない自分を、何よりも責めている――いや、呪っていると言ってもいい。その呪いは突き詰めれば、生まれてきてしまったことを悔いるのと同義だ。この子が悪いわけはないのに。ただ生まれてきただけで責められる命など、あっていいはずはないのに。


 朝陽に輝く水面を見詰めながら、俺は静かに口を開いた。


「パルフィーと一緒に居るのが、奏が望んだ生き方だ。平穏な生活より、多くの人に讃えられる人生より、君の騎士ナイトになることを選んだ。パルフィーが奏の幸せを願うように、奏もパルフィーの幸せを願ってるはずだ」


 奏の覚悟は既に決まっている。


 必要なのは、その覚悟に寄り添う、大切な人の心だ。


「パルフィーの存在が、きっと奏の支えになってるよ」


 パルフィーが俺を見上げる。


「私が、奏の支えに……?」


 考えたこともなかったのだろう、大きく見開かれた瞳に、俺は頷いた。


 トパーズ色の双眸がふっと緩む。


「……そうだと、いいな」


 微かな笑顔を、透き通る朝陽が照らす。その声音には、ほんの少しだけ、勇気に似た力が籠もっていた。


 フードの下で、猫耳がぴょこりと動く。


「王宮に帰るつもりはないケド……貴方の後宮は、ちょっと楽しそう。女の子たちが、みんなきらきらしてた」


 獣人の少女は上目遣いに俺を見上げた。


「いつか、こっそり遊びにいってもいい……ですか?」


 輝きを秘めた宝石のような双眸が眩くて、俺は目を細めて笑った。


「いつでも来てくれ。歓迎するよ」





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