第15話 悪魔の子



 そして、次の日。


 まだ太陽も覚めやらぬ早朝。


 熱い湯に浸かりながら、あくびをかみ殺す。


 結局あの後、夜を徹して書庫にこもってしまった。アンベルジュのことも調べようとしたのだが、めぼしい文献は見つからなかった。


 代わりに剣術の手引き書を発見して、夢中になって剣の型を練習し、気がついたら、夜が白みかけていた。


「はー」


 身体に溜まった疲れが、乳白色のお湯に溶け出していく。それにしても立派な湯殿だ。これが勇者専用だというから驚かされる。……それにしたって広すぎないか?


 頭からお湯を被って、眠気と疲れを洗い流す。だいぶさっぱりした。


 タオルで頭を拭きながら、姫用の湯殿の前を通りかかる。


 と。


「ん?」


 なにやら物音がする。立ち止まっていると、中からアルルが出てきた。大きな布を引きずっている。


「アルル? どうしたんだ?」


 布を拾い上げる。ひらひらしたピンク色のそれは、寝間着のようだった。


「? なんで……」


 不思議に思っていると、中からひどく慌てたような声が聞こえてきた。


「アルル、どこにいったの? だめよ、戻ってきて、アルル」


 リゼの声だ。ぱたぱたとせわしない足音がして、慌てた様子のリゼが飛び出してきて――


「リゼ!?」

「ろ、ロクさま!?」


 リゼはタオル一枚をまとっただけの姿だった。


「ひゃああ! もももも、申し訳ございませんーっ!」

「い、いや、こちらこそーっ!?」


 リゼは真っ赤になって、背中を向けてしゃがみこんだ。


 俺も慌てて目を逸らそうとし――異様な光景に気付く。


 リゼの背中に、黒いアザが張り付いていた。背中から蔦のように伸び、手足にまで絡みついている。白い肌に刻まれたそれは、あまりにも異質で――


 リゼがハッと振り向いた。タオルで身体を隠しながら、蚊の鳴くような声で尋ねる。


「ご覧に、なりましたか……?」


 嘘をつくわけにもいかない。俺は頷いた。


 リゼはうつむき、呟く。


「……これは、呪いのアザなんです」

「呪い?」


 リゼは小さく頷くと、床に向かって手をかざした。リゼの魔力回路が不穏にざわめき――床にバチッ! と、黒い雷撃が弾ける。


「!」


 ……これは、地下で見た魔物コウモリと同じ……


「これが、あの日・・・から私が手に入れた力……黒く、おぞましい、魔族の呪いと呼ばれた力です」


 このままでは風邪を引いてしまう。ひとまず服を着るよう促し、リゼの部屋に移動する。


 並んで座ったベッドの上。膝に乗ったアルルを撫でながら、リゼはぽつぽつと語り始めた。




◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆




 リゼ――リーズロッテは、ベイフォルン子爵家の長女として生を受けた。


 土地は豊かではなかったが、養蚕業が盛んで、絹の産地として名を馳せていた。父アイゼン・ベイフォルンは領民に慕われ、三人の兄もまた、子爵家の誇りと慈愛の心を引き継いでいた。


 母は年子の妹シャロットを産んでから病みつき、まもなく亡くなったが、リゼは家族や使用人たちの愛を一心に受けて育った。


 ひとつ下のシャロットを、リゼはとても可愛がった。シャロットは炎魔球の魔術が大好きで、リゼが見せてやると、小さな手を叩いて喜んでくれた。


「リゼねえさまのまじゅつ、とってもきれい!」


 可愛い八重歯を見せて笑った笑顔を、今でも覚えている。


 その事件が起きたのは、リゼが八歳、シャロットが七歳の時だった。二人が突如として行方不明になったのだ。

 邸宅の裏、よく親しんだ森で遊んでいた時の出来事だった。使用人が目を離したのはほんの数分。その間に、幼い姉妹は姿を消してしまった。


 手がかりも目撃者もなく、魔族に攫われたのではないかという噂がまことしやかに流れ始めたある日。リゼだけが戻ってきた。

 シャロットのリボンを握りしめて、森の入り口にぽつんと佇んでいたという。


 失踪していた間のことを何度も尋ねられたが、幼いリゼは「わからない」と首を振ることしかできなかった。あの日からの記憶はすっぽりと抜け落ちていた。


 そして特筆すべきはその姿――はしばみ色だった瞳は赤く変じ、背中には黒いアザが刻まれていた。それだけではない。リゼが発動する魔術は、黒く禍々しいものへと変貌していたのだ。


 いつしか口さがない噂が、貴族たちの口に膾炙されるようになっていた。


「見たか、あの血のような赤い瞳。それに、あのおぞましい魔術。まるで魔族じゃないか」

「あの禍々しいアザを見ろ。あれは悪魔の取り替え子だ。ベイフォルン家には近づくな」


 シャロットが行方不明になったその日以来、愛情深かった父親は、リゼに冷たく当たるようになった。リゼを屋敷に閉じ込め、誰の目にも触れさせようとしなかった。


 ある日、リゼは客間の前を通りかかった。中からは、父とどこかの貴族の会話が聞こえてきた。


「シャロットさまはまだお戻りにならないとか……リゼさまのこともご心配でしょう。ご自慢のご令嬢でしたのに」


 好奇心を隠そうともせずそう尋ねる貴族に、父は低く、だがはっきりとした声で応えたのだ。


「あれは、私の娘などではない」


 リゼはその時、自分の居場所が、もう世界のどこにもないことを知った。自室に駆け戻り、ベッドに伏せて嗚咽をかみ殺した。


(私は妹を守ることができなかった。妹がきれいだといってくれた魔術も失ってしまった。自分は悪魔だ、悪魔の子なのだ)


 せめて妹を探しに行きたかった。可愛いシャロット。あの子の代わりに私がいなくなれば良かったと、何度思ったことか。


 兄や使用人たちはリゼを気遣ってくれ、リゼも心配をかけないよう明るく振る舞っていたが、ある日、父から告げられた。


「王城に祝福の実が成った。後宮に入れ。そして、二度と戻ってくるな」

「……はい」


 王都に向かう馬車の中で、リゼは泣いた。そして、涙を流すのはこれっきりにしようと決めた。


 中央に行けば、妹の手がかりが見つかるかもしれない。勇者の妻となれば、魔族の情報も入ってくる、冒険に連れて行ってもらえるかもしれない。そうすればきっと、妹を探し出すことができる――



◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



「…………」


 話し終わると、リゼはそっと寝間着の裾をまくった。亀裂のように走る黒いアザをなぞる。


「この体には、魔族の力が宿っています。私の魔力は呪われているのです」


 ――そうか。だから浮魔球を使ったあの日……


 俺はようやく、リゼがあの日流した涙のわけを知った。リゼは、幼い妹を守れなかった罪を、どこにも身の置き場のない孤独を、この細い身体にずっと抱えてきたのだ。


 思い詰めたような横顔に、胸が痛む。


「辛かったな」

「いいえ。私の苦しみなんて。まだこの世界のどこかで泣いているかもしれないシャロットのことを思うと……」


 うつむくリゼの頬を、アルルが心配そうに舐める。


 俺は少し逡巡して、口を開いた。


「リゼ。試したいことがあるんだ」

「え?」


 その手を握り、ルビーのような双眸を覗き込む。


「俺を受け入れてくれるか」


 リゼは目を見開き――頬を染め、消え入るような声で、けれど確かに答えた。


「はい、受け入れます。ロクさまのすべてを」


 身を乗り出す。ベッドがぎしりと軋んで、リゼがびくっと肩を跳ね上げた。


「あ、あの、ロクさま」

「ん」

「私、はじめて、ですので……や、優しく、して、ください……」

「もちろん。痛かったり、苦しかったりしたら、すぐに言ってほしい」

「はい」


 しかし、リゼの緊張を表すように、魔力回路がぎゅわんぎゅわんと猛り狂っている。


「ええと、もうちょっと力抜けるか?」

「は、はいっ!」

「あんまり硬くなってると、魔力、移せないから」

「はいっ、そうですよねすみませ……ふぇ? 魔力?」

「うん」


 これまで、リゼが本来の魔術を発動することができたのは、俺と触れ合った時だった。それで思ったのだ。俺の魔力を注ぐことで、リゼの本来の魔力を活性化できないかと。


「ま、魔力を移すなんて、そんなことができるのですか?」

「植物では、うまくいったんだ。ただ人に譲渡するのは初めてだから、何かあれば、すぐに言ってほしい」

「は、はいっ」


 リゼは元気にそう返事したが、真っ赤になってうつむいた。小声でなにやら呟いている。


「そ、そうですよね、リゼったら勘違いしちゃった、恥ずかしい……」


 よく分からないが、少しはリラックスできたらしい。


 小さくて柔らかな手を取る。


 意識を研ぎ澄ませ、黒く凍えている魔力回路に、ゆっくりと魔力を流し込む。


 リゼが「ぁ……」と小さく目を見開いた。

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