第2話 そして彼女は告げた

 東条叶とうじょう かなえ。この名前が観察対象として告げられた次の瞬間には、僕は彼女が通う高校の、彼女が居る教室の隅に立っていた。


 ついさっきまで真っ暗闇にいたはずなのに、目に映る光彩に目が眩むことはなかった。


 僕はもとからここにいたかのように、まるで違和感がない。


 自分が今どこにいて、何をするべきかもわかる。記憶に無いはずの情報や知識までもが頭に詰め込まれている。


 こればかりは不思議な感覚だ。


 察するに、今はどうやら数学の授業中のようだ。黒板の前には年配の男性教師。その手からはつらつらと三角関数の公式が並べられていくが、クラスの半分程が置いてけぼりの内容らしい。


 四十人程居る生徒達を授業に参加している組としていない組に分けたらいい勝負だろう。


 しかし、参加している組は良いとして、参加していない組でも特に感心できないなと思わされるのは、机の陰にスマートフォンを隠してSNSをチェックしている生徒や、堂々と突っ伏して居眠りをしている生徒だ。


 せっかく与えられている時間を、どうして有意義に使わないのだろう。


 僕が死んだ人間だから、そんな風に思ってしまうのだろうか。それとも、もともとそういう考え方の持ち主だったのだろうか。


 人間だった時の記憶が無いせいで、僕の自我が本来のものなのか、死神となった今だから形成されたものなのかがわからない。


 もしかしたら、生前の僕も目についてしまう彼ら彼女らと同じように、無駄な時間を過ごしていたんじゃないだろうか。


 だとしたら、とても虚しい。


 何に対してというわけではないが、記憶があるなら、きっと後悔する。


 東条叶はというと、僕の陰鬱で薄弱な思考とは対象的に、力のこもった眼差しで黒板を見つめながら、一生懸命に板書を取っていた。


 ここで彼女が怠惰な態度を取っているようなら、僕が死神でなくとも、マイナスの評価をせざるを得なかっただろう。


 ただ、評価だ査定だとは言っても、別に粗探しをする必要はない。彼女が真っ当に生きているのであれば、命を奪う必要なしと判断して、次の役目を待つだけのことなのだ。


 喜怒哀楽を感じる身となり、その喜怒哀楽、自身の価値観を以ってして、彼女が今の人生を歩み続けるべきかどうかを判断する。


 僕がどんなことに喜び、怒り、哀しむ人間であったのかはわからない。それでも、死神としての今の僕が、判断をする。


 自身の感情も定かではない僕なんかが人様の人生にあれこれ言える立場かとも思うが、冷静に考えれば、死神とはそういう立場だ。


 役目なのだから仕方がない。


 神様に何様のつもりで何億人ものシナリオを描いているのだと怒りはしないだろう。


 そういう存在はそういう存在意義なのだから、そこに道理はいらないはずだ。神様には神様の役目があり、死神には死神の役目がある。


 恨まないでくれよ、と思いながら査定結果を出す他ないのだ。


 しかし、なぜ彼女が観察対象なのだろう。


 目に見えた悪人が観察対象であれば、僕は世の中のためにすぐにでも命を奪う判断をするだろう。だが、彼女はどこにでもいるような高校生だ。彼女の生を奪ってまで他者に与えるくらいなら、悪い意味で彼女よりもよっぽど相応しい人間なんてたくさんいるだろう。


 それとも、彼女が観察対象になった理由がこのあとの観察で見えてくるのだろうか。


 彼女は演習の指示が出れば言われた通りに取り組んでいるし、男性教師が巡回をしている時には自ら質問までしていた。他の生徒とは明らかに学習意欲が違う。男性教師も一生懸命になってくれる生徒が可愛いのだろう、彼女の机の前で熱心に解説をしていた。


 彼女は男性教師がその場を離れてからも教科書とにらめっこをしながら演習を続けていた。にらめっこが終わったかと思えば、わかった、と声には出さなかったものの、そう囁くように口元を動かした。


 無事に先程までの演習内容を理解した様子の彼女はえらく満足げな表情で、男性教師が解説を始めるのを今か今かとうずうずしながら待っていた。


 その姿だけで、彼女の人生は充分に豊かなものだと思わされた。


 彼女は自分がやるべきことをやっている。


 彼女は生き生きと生きているじゃないか。


 ふと、他の授業に参加している組の生徒たちも同じ様子かと辺りを見回していると、なぜか一人、僕の方に視線を向けている女子生徒がいた。


 僕が立っている後ろに何かあるのだろうかと振り返ってみるが、小さな黒板に今月の予定や伝達事項が書いてあるだけだ。


 気になる予定でもあったのだろうか。


 あまり深く考えず、その生徒に視線を戻してみるが、やはり気のせいだったか、その生徒は前に向き直り、気だるげに伸びをした。


 それと同時に授業終了のチャイムが鳴り、ああ、授業終了の時間を待っていただけか、なんてことを思いながら東条叶に意識を戻した。


 教室の前方にある時間割の表によると、この数学が本日最後の授業とのこと。


 休憩に入り、ほとんどの生徒が席を離れていく。僕の体をすり抜けながら廊下に出て行ったり、友人の席まで行って談笑したりし始めている。


 東条叶は帰り支度をしていたが、そこに先程、僕を視認したんじゃないかという素振りを見せた女子生徒が歩み寄る。


 授業中の態度もだが、容姿や雰囲気も正反対の二人だ。


 東条叶は薄氷のような白い肌に艶やかな長髪の黒が映える、飾らない純朴な少女といった印象だ。


 一方の女子生徒は、むらのない金色に染め上げたショートカットに、切れ長な目。鼻筋が通ったとても端正な顔立ちをしているが、金髪と目つきが相俟って少々威圧的だ。


 そんな二人が何を話すのか。


 周りが騒がしくて何を話しているかまではわからない。


 今後の観察の参考までに会話でも聞いてみようと、生徒や机を物理的に無視して、一直線に二人のすぐ真横にまで向かった。


 その瞬間だった。


 金髪が、僕の方を睨みつけた。


 真っ直ぐに、僕に敵意を向けてきた。


 動いていないはずの心臓が飛び跳ねたかのような衝撃が胸元から広がり、どんどん僕の全身を硬直させていく。


 授業中に僕の方を見たのも偶然ではなかったのか。


 しかし、待てよと自分に言い聞かせる。


 この金髪は僕の存在に驚いたり怖がったりしている様子は一切見せなかった。もしかしたら、何かしらの気配を感じ取っているだけという程度かもしれない。


 犬が宙を見つめて尻尾を振ったり吠えたりするのと同じで、金髪は吠えるタイプというだけかもしれない。


 さすがに楽観的過ぎるだろうか。


 僕があれこれ考えている間に、金髪はすぐに、何も無かったかのように目元から荒々しさを抜いて、東条叶に視線を戻す。


 そして、周囲に聞こえないよう慮っているかのように、消えいる声で東条叶に言う。


「今日もこのあと行くの?」


 会話を続けるあたり、僕の存在ははっきりと認識できていないと判断してよいのだろうか。


 そう言った金髪の表情はどこか不安げで、何を心配しているのか心中が気になってしまう。


「今日はまっすぐ帰る予定だから、一緒に帰ろ?」


 東条叶は金髪に優しく微笑み、弾む声を返した。


「そっか。よかった」


 金髪も、こんな顔ができるのかというくらいに、威圧的な印象を一変させるような笑みを浮かべた。


 やはり先程までのことは偶然だったと思うべきか。金髪の目つきが悪いから、たまたま見遣った方向にいた僕が睨まれたと感じてしまっただけだろう。


 しかし。


 やはりと言うべきか。


 僕は甘かった。


「あんたはついてこないでよね」


 東条叶のもとからの去り際、金髪ははっきりとそう言った。

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