神原優花 高林さんのヒミツ

「ねぇ白雪」

 いろいろと推測を巡らせるなか、確認したいことがあって声をかけるも、返事をしてくれたのは高林さんだった。

「白雪さんなら神原君と一緒に飲み物を買いに出ていかれましたの」

「ん……」

 高林さんの声を聞いて我に返ったあたしは、白雪と陽太がいなくなっていたことに気づく。文房具の入った袋だけが残っている。

 眠ったままの姫花さんに目が留まり、私は恐る恐る近づいてみた。

 恐怖心に胸の鼓動が高まる中、ゆっくりと姫花さんの身体に手を伸ばす。腕の皮膚に触れてみたけど、人肌の温度が感じられるだけで、心電図にも指先にも表情にも何の変化も起きそうにない。

 この人の魂は今、あたしの中にある。触れた指と肌を通じてなんとか送り届けられないものか。

 とりあえず、人格チェンジで小さくも反応があるようだけれど――と考えていると、高林さんが真剣な顔をして言った。

「わたくしも、考えてみましたのよ」

「と、言いますと?」

 理屈的に考えて、高林さんがここにいるということは、そして高林さんの前で姫花さんからあたしに人格チェンジしたということは、つまり高林さんは今あたしたちの置かれた状況を知っているわけなのだろう。でなければ白雪が彼女の前で姫花さん状態のあたしの首にリボンを巻く理由に説明がつかない。

 そう確信していたので確認しなかったが、いざ二人きりにされると不安になってしまう。

「先ほど、回数、時間、距離とおっしゃっていましたが、わたくしとしましては少なくとも距離はないと考えますの」

「その心は」

「あらま。まさか中高生でその返しをしてくる方がいるとは思いませんでしたが、ともかく――」

 高林さんは咳払いして、

「神原さん双子がご自宅の階段で転倒。榊さんと姫花さんが東神奈川駅の歩道橋の階段で転倒。聞けば徒歩三十分弱の距離ということでしたわね。榊さんたちの魂がそれだけの距離を無視してお二人の身体に入った以上、人格チェンジによる榊さんたちの本体への影響に、距離が密接に関わっている――と考えるのはやや不自然な気がしますの」

「なるほど、たしかに」

 相槌を打つその瞬間にも、あたしの頭の中にはまた別の確認事項が浮かんでくる。それを頭の隅にメモを取りつつ、今は会話だ。

「となればですわ。人格チェンジのタイミングで榊さんたちの身体に影響を及ぼしているのか、それとも単に時間が経過するだけで人格チェンジの影響が強くなっているのか……神原さんは今、この辺りまで考えているのではなくて?」

「ええ、まあ」

「でしたら、あとは毎日できる限り人格チェンジをしつつ過ごせば――」

 そこまで言って、高林さんはハッとした。

「――と言いたいところですが、学校が始まるのでしたね」

「そうなんです。中高一貫エスカレーター式なので、クラスメイトもだいたいは知り合いばかり……うまく誤魔化せたら、とは思うんですが」

「……今日の感じを見る限り、難しいと思いますわよ……」

 苦笑する高林さんに、あたしも頬の筋肉を緩めて頷いた。

「みんながみんな、高林さんみたいに思慮深い人ばかりだったらいいんですけど、まあ騒ぎ立てるグループにいくつも心当たりがあるもので」

「みなさん悪気があって騒ぎ立てるつもりもないのでしょうけれど……そういう問題ではありませんものね。早めにこの問題が解決できればよいのですけれど」

 考えるのに疲れて、あたしは一旦深呼吸。

 白雪は陽太とのささやかな買い物でも緊張しているのかしら……と気分転換になることを考えている間にも、高林さんは眉間に皺を寄せて「解決策は……」と唸っていた。

「……すみません、巻き込んでしまって。今日、本当ならお休みの日なんですよね、お仕事」

「ええ? 気にしないでくださいまし。実を言いますと、こういうことを考えるのは好きなんですの」

 廊下へ続く引き戸が開いて、白雪と陽太が入ってくる。

「はい、優花ちゃん。たまにはオレンジジュース飲む?」

 選択肢はオレンジジュースとアイスコーヒーのブラック、両方缶だ。

 白雪はお姉さんがおいしいコーヒーを淹れられるから、こういうときにコーヒーはあまり飲まない。

「ううん、コーヒーでいいわ」

 陽太が高林さんにお茶とお釣りを渡すのを見届けて、白雪が私たちを見た。

「それで、なんの話をしていたの?」

「ちょうど頭の休憩に入ったところよ。高林さん、お仕事今日お休みでしたねって」

 プルタブに指をかけて、缶を開ける。すっと鼻腔を通る香りと共にコーヒーを煽ると、喉を中心にひんやりとした感覚が広がった。

「へぇ。お休みの日ってどんなことしてるんですか?」

 白雪に聞かれ、高林さんは少し気恥ずかしそうに笑う。

「まぁ……散歩とか……散歩とか?」

 そこに陽太が食いついた。

「じゃあ、榊さんのお部屋に行ったのも散歩ですか? ……なにもない住宅街って聞いてましたけど」

「あら、ああいう住宅街こそ絵の資料になりますのよ?」

「……絵の資料?」

 突拍子もない単語が出てきて、ついオウム返しにしてしまう。一方高林さんは、口が滑ったと言わんばかりに冷や汗を浮かべていた。

 あたしなんかは、誰もいない榊さんの部屋に近づく理由がわかって納得するくらいだったんだけど、白雪は興味を持ったようだ。

「絵、描くの好きなんですか?」

「す、好きといいますか……」

 やけに歯切れの悪い高林さん。

「……皆さんの人格同居問題を知ってしまった以上、隠しごとはなしですわよね……」

 高林さんはふっと息をついて白状した。

「ま、漫画を描いていますのよ。……その、趣味で」

 つまり住宅街は、背景としてか。

「腑に落ちました。だから駅前ビルの中でもあんな熱心に陽太からいろいろと聞いてたんですね」

「ええ、まあ……学生とお話しできる機会なんて、そうないですから」

 小さな声で、恥ずかしそうに頷く高林さんの耳が赤い。……それだけ隠したいことなのだろう。

 白雪から微笑みと視線が向けられる。この話題はこれで終わりにしてあげよう、という意味か。

 了解、話題変えるわよ、とあたしが頷くと同時。

「どんな漫画を描いているんですか?」

 いや陽太あんたねぇ、なにビシッと聞いてるのよ。高林さんの顔色見なさいよ超嫌そうな顔してるわよ。

「え……あー、そうですわね……例えるならば、『赤騎士と白姫』みたいな作品を描けたら……と」

 それは少女漫画で一時期SNSでも話題になった作品だ。

「『赤騎士と白姫』は、ある漫画雑誌の賞を受賞して掲載された読みきり漫画なのですが、皆さんのひとつ歳上の、当時中学生の方が書いたとてもピュアな少女漫画でして」

 ストーリーや心理描写も去ることながら、その世界に読者を引き込む緻密な背景や小物の躍動感が、とても中学生レベルとは思えない出来で……と語り始める高林さんに、白雪が純粋な笑みを浮かべて暴露した。

「それ、私たちの先輩ですよ?」

「ええ!?」

 白雪の笑顔はさらに輝く。

「ちなみに当時のアシスタントがこちらにいる神原君です」

「ええっ!?」

 当の本人は照れ半分懐古半分といった様子で頭をかいていた。

「では……あの今にも動きだしそうな動物たちは……」

「僕が描きました」

「ラストの見開きページいっぱいに広がる『果てなき虹の薔薇園』は……」

「僕が描きました」

「なんということですの……っ!」

 カッと目を見開いた高林さんは、前髪の生え際が見えるほどの勢いで陽太の目の前まで移動し鮮やかに腰を折って叫ぶ。

「わたくしにもお力添えくださいましっ!」

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