神原陽太 神業――前編
「わたくしが皆さんくらいの頃は、自由という言葉を知らずにいましたの」
病院を出て高林さんの家に向かう道中、高林さんは僕らに漫画を描き始めた経緯を教えてくれた。
「生まれる前から、あらゆるすべてが決まっていましたわ。小学校入学までに行う英才教育。入学する小学校。中学も高校も大学も然り。そしてこれから先もですの。二十六歳までに然るべき男性を探し結婚し、やがて男の子を産むまで。男の子を産めば後継ぎとして育て上げ、女の子しか産めないようなら、わたくしとまったく同じ人生を歩ませるのみ」
そう語る高林さんの内容に、優花が涙目を浮かべていた。
「う、嘘でしょ……家族に人権を与えない家庭があるなんて……」
「白雪、手鏡持ってないか」
「そんな遠回しな言いかたじゃ伝わらないと思うよ。たまにはガツンと言ってみようよ」
白雪のアドバイスに従い、僕をこき使うお前が言うなと優花に説教しようとしたものの、既に話は先に進んでいた。
「じゃあ、漫画描くのも一苦労なのでは?」
「まさか親の前ではできませんわ。でも、二十六までは社会勉強として一般企業に就職し一人暮らしをする期間なのです。今なら色々と自由がききますもの」
「なるほど、一度名前を世に出してしまえばこっちのものってわけですか」
「ええ。遅すぎる反抗期ですわ」
僕も反論が遅すぎた……。
それでも、どんまいって白雪が励ましてくれるだけ、幸せな方なのだろう。
そうこうしているうちに、高林さんの家に到着……って。
ひ、ふ、み、よ……五階建てのマンションには地下駐車場があるらしく、大きな口を開いていた。
「立派なマンションですね……」
「我ながらなかなかいい物件を見つけられたと思いますのよ」
駐車場のすぐ横、エントランスにはオートロック。郵便受けを確認した高林さんは、鍵を出してオートロックを解錠する。
エレベーターで最上階まで昇り、廊下の突き当たりまで進み、角部屋へ。
「さ、上がってくださいまし」
几帳面なのか、それこそ厳格な英才教育の賜物か、玄関や廊下は掃除がとても行き届いていた。
「わあ! なんかこういうの見ると一人暮らししてみたくなるね!」
「嫌よ、ご飯やお風呂自分で用意するとか」
「即答でそこまで言う!? もし神原君が一人暮らし始めたらどうするつもりなの!?」
「ふん、どうせ家のことが心配になって二日で戻ってくるわよ」
「なんでそんなに自信があるの!? ……あくまでも自分で家事をする気はないんだね、優花ちゃんは……」
優花の将来を憂いつつ、廊下を直進。
リビングのドアを開けると、とても輝いた空間が広がっていた。円形のふかふかなカーペット、一人用の黒くて大きなソファ。オシャレなデザインの脚が特徴的な楕円形のミニテーブル。
間取りこそやや狭い気するが――僕や優花の自室よりも狭いかも――高い天井と、開けたカーテンの先、ベランダの向こうに広がる青空と神奈川の街並みがあるから気にならない。
スライド式の二枚扉の向こうが寝室なのだろう、そこからデザイン違いの動物型クッションを三つ抱えて高林さんが出てきた。
「こういうとき、多人数用のテーブルやソファがないのは不便ですわね」
「そんな、おかまいなくです。竜太さんのお家なんて、足の踏み場もないくらいでしたから」
白雪が笑顔で茶色い熊のクッションを受け取る。優花は黒猫、僕は白いウサギ。……白雪、僕のと交換してくれないか。
「今、少しだけ一人暮らしのハードルが下がった気がするわ」
「お前なあ……」
絨毯の上にウサギのクッションを敷く僕の前で、白雪と優花はクッションを抱えるように体育座りをして座った。
……そうするのが常識なの?
「座布団代わりにしてもいいですのよ」
と持ち主から許可は貰ったものの、僕だけクッションを尻に敷くのも気が引ける。……動物型なのがいけないと思う。
仕方なく白雪たちの真似をして、ウサギのクッションを抱えて座ると、白雪が真顔になってスマホを僕に向けてきた。
パシャリ。シャッター音が虚しく響く。
「なんで撮るんだ……?」
「いやごめんつい」
スマホをしまい――写真は消してくれたのだろうか――白雪は高林さんに目を向けた。
「それで、漫画っぽい道具がなにひとつとして見当たりませんが」
「寝室の液タブで書いてますの。いわゆるGペンとか、買ったことありませんわ」
「え、僕デジタルやったことないです」
中等部の漫研は紙とペンとインクがメイン……というかベタからトーンまで手作業だった。
先輩の話じゃ、デジタルだとウインドウから使いたいトーンと範囲を選択しタッチするだけでトーン貼りができるという。ホントかどうか知らないけど。
手作業だとトーンシールを原稿用紙に貼ってからはみ出した部分を切り取る作業になるので、作業効率が全然違うとのこと。
「神原君には、どのように絵を描いているのか見せて欲しいんですの」
「そ、そんなことでよければ……」
てっきり漫画原稿のお手伝いをすることになるのかと身構えていたが、渡されたのはスケッチブックだった。
「描くものはいろいろありますけども」
ペン立て型の筆箱が楕円形のミニテーブルに乗り、鉛筆シャーペンサインペン、色々な筆記具が顔を出す。
「高林さんの漫画に背景を描くんじゃないんですね」
「プリンターはありますけど、手描き用のペンやインクなんて持ってませんもの。そもそも技術的な部分はわたくし自身が頑張るところですわ。神原君には、あの芸術的な背景をどうやって描いているのかを見せていただきたく」
高林さんは熱意に瞳を燃やしていた。そんな顔を見せられては、協力しないわけにはいかない。
「わかりました。でも、なにを描きましょう? 花畑ですか?」
「いえ、できれば住宅街で。それこそ昨日皆さんとお会いした――あら、昨日は榊さんと姫花さんでしたね――あの辺で」
「了解です」
そう言って、僕が高林さんの筆箱からHBの鉛筆を取ると、高林さんは自身のスマホを操作する。
「今参考画像を――」
「いえ、ない方が描けます」
「え」
模写なら必要だが、求められているのは絵だ。資料に忠実に書かなければいけないわけではない。
さて、昨日僕には昨日榊さんの部屋に行った記憶がないわけだけど、住宅街というからには住宅街なのだろう。とりあえず休日の昼下がりと仮定して……。
三階建ての賃貸アパートがある。車一台置ける程度の庭付き一軒家がある。むしろ一軒家多めかな? 干してある洗濯物が風に揺れて、別の一軒家のベランダには親子仲良く布団が日光浴。
アスファルトで鋪装された道路の幅は車一台分、自転車とすれ違う余裕くらいはある気がする。電柱はあっても信号機はなく、自動販売機は……あってもいいけど似合わないな。逆にゴミ捨て場が必要だ。でも日曜日だから誰もなにも捨てていない。
公園へ砂場遊びに行く兄弟っぽい幼稚園児二人を走らせ、少し遠くにお母さんを歩かせる。主婦が自転車のかごに膨らんだエコバックを乗せて漕ぎ、鼻歌を歌わせよう。犬の散歩は――とっくに終わっているだろうけど、近所の家の飼い猫は散歩しているかも。
この絵を見るのは僕よりそれなりに背の低い高林さんだから、イメージ映像をやや上下に傾ける。建物をやや大きめにして、空の割合が気持ち増えた。
「――よし」
想像を膨らませた僕は、その世界の上にスケッチブックのページを重ねて、一気に焼き付ける。
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