神原優花 人格チェンジの毒素と解毒

「そこまででいいですから!」

「ひゃあ!?」

 白雪の素っ頓狂な悲鳴、刹那に切り替わる視界の光景。

 あたしは陽太の置手紙について喋っていた榊さんを止めるつもりだったのだが、突き出した手の先にはなぜか白雪の背中があったのだ。

「ぐえっ」

「ひゃん!?」

 間髪入れず陽太――榊さんかも――のくぐもった声と白雪の艶っぽい声があたしの耳に届き、視覚も焦ったように情報を集め始める。

 ファミレス。見ず知らずの同席者が目の前に二人。白雪のご両親が隣の二人席に座っている。

「わあああ陽太君ごめん! だ、大丈夫!? ちょ、姫花お姉ちゃんなにするの!? よ、陽太君……気絶しちゃった、かな……?」

 白雪は耳まで真っ赤にして、両腕で胸を隠すように覆いながら、あたしと陽太――白雪の呼称から確定――へ交互に視線を投げている。ちなみに、白雪は咄嗟に胸を庇う動作が早かったため、結果として全体重をかけたチョップをお見舞いした形になったようだ。

 そのためか、陽太はソファの上に倒れたまま動かない。次目を覚ますときは竜太さんになるわね。とにかく、白雪に謝らないと。

「ご、ごめんなさい白雪……今、姫花さんからあたしに切り替わったのよ……」

 言いつつ、状況把握に努める。

 テーブル上には綺麗に平らげられたお皿がたくさん。口の中からたらこパスタの香り。

「このタイミングで!? なんで!? ちょ、そんな連続で切り替わられても、私フォローしきれないよ!?」

 白雪はとっても戸惑っているみたいだけど、それも数秒のうち。すぐに複雑そうな表情になる。

「でも、ある意味助かったよ……」

 事の次第はさすがにわからないけど、どうやら今、のっぴきならない事態にあったらしい。

 ちらりと見たスマホの日付表記は、ついさっき榊さんが陽太からもらった置手紙をそらんじた日と変わらない。時刻は午後二時二十二分。

 ――すべてを繋ぐ説明が頭の中で完成した。

 よし、次は確認だ。

「白雪、そちらの方たちが榊さんのご両親ね?」

「う、うん……ノーヒントでよくわかったね」

「もとよりそういう予定だったでしょうに」

「さすが優花ちゃん。……あれ? 優花ちゃん? どうしたの?」

 状況がわかればわかるほど、脳と心に余裕が生まれる。

 ……あたしは、この感覚がすごく嫌いだ。

 生まれた空き容量に、とめどなく不安が流れ込んでくるから。そのせいで、あたしは動けなくなってしまうのだ。白雪たちには、あたしの気持ち、この感覚……理解できるだろうか。

 状況を把握することで、客観的に、あたしの感じている時間の流れと、みんなの感じている時間の流れが違うことが突き付けられる。

 これはすごく怖いことだ。あたしにとって、榊さんがそらんじる陽太からの置手紙は今さっきのこと。実際に書かれた内容は知らないけど、どうせあいつのことだ。バカ正直に全部書きやがったことだろう。――あたしのこの、不安症というどうしようもない欠陥を。

 そう思うと、とても恥ずかしくて、悔しくて、カッとなって……白雪にはどう思われたのだろうかと不安になって、顔を見るのも怖くなる。

 でも、白雪にとってはもう何時間も前のことだから、聞いたうえで気にしないようにしようとか、そもそも内容を忘れるとか……冷静な心の整理がついたはずなのだ。だから、平時のテンションで私に話しかけることができる。

 時間に置いていかれた。人格チェンジの、精神的な弊害。

 心を凍てつかされるこの孤独感。誰が悪いわけでもない、闇。

「……キツいわね、これ。思っていた以上よ」

「ゆ、優花ちゃん……? どうしたの、突然、泣いて……」

 あたし、泣いてるのか……本当だ。言われて気づく、目の熱さ。

 ダメ、耐えるのよ。まして今は榊さんのご両親の前。その立場からあたしの嘆きを聞けば、きっと、榊さんじぶんたちのこども陽太ひとさまのおこさんの中にいることで双方の精神が傷ついていくことを理解するはず。

 そしてなにより、親はこの人格同居問題に対して、ただ見ていることしかできない。それがきっと、一番堪えるはずだ。

 あたしに子供なんていないけど、もし榊さんのご両親の立場だったらきっと、そう思ってしまうだろうから。

 そんな辛い思いを、この人たちにさせるわけには……いかない、のに。

「白雪……あたし……!」

 言うな!

「辛くて……ホントに……!」

 言っちゃダメ!

「助けてよ……白雪ぃ……!」

 こんな気持ちになるのはあたしだけで十分よ!

「……うん。なんでも言って? 優花ちゃん」

 やめて白雪、優しくしないで……!

 お願い、あたしを止めて……!

「友達だもん。力になりたいよ」

 白雪の手が、あたしの頭に触れて――あたしを壊した。


 こうして、あたしはバカ正直に全部吐き出してしまった。

 最悪。空気重すぎるし、こうなることわかってて言ったあたしが悪いのは明白だし。

 だいたい、身体が意識不明となった姫花さんや榊さんのご両親揃い踏みという一番やらかしちゃいけないところでやらうかかしてる辺り、ホントあたしってバカ……。

 そう自己嫌悪に陥っているあたしの耳に、白雪の声が届いた。

「……そっか。優花ちゃん、そんなところまで考えてたんだ……」

「ただ考えすぎなだけよ」

「そんなことないよ! その、優花ちゃんみたいに、うまく言えないんだけど……でも、すごいなって」

「……ご機嫌取りなんていらないわ」

 あたしが口を尖らせると、白雪が眉を跳ね上げた。

「なっ!? 私、そんなつもりじゃ――」

「白雪」

 白雪に向かって手を伸ばした白雪のお母さんが、あたしたちの口喧嘩に割って入ってくる。

「優花ちゃん。ありがとう、私たちの心配までしてくれて。姫花としか思えない言動が優花ちゃんから飛び出してきて、お母さんたちずっとパニックになってた。でも、優花ちゃんのおかげでようやく我を取り戻せたわ。……親っていうのは、優花ちゃんが思っているような、ただ心配するだけの生き物じゃないのよ。ねえ、お父さん?」

「ああ。心配もするし、なにもできないことに無力感だって覚えるだろう。でも、それと同じくらい信じて待つことができるんだ。……昨日今日と、情けない姿ばかり見せて悪かった。もちろん、こっちでもできる限りのことをするつもりだが、ちゃんと優花ちゃんたちを見て、そして、信じよう。だから、不安になる必要はないんだよ」

「そ、そうは言われても……」

 あたしの心に巣くう闇は、不安症は、言葉だけでは消えないのだ。そんなあたしを見て、白雪のご両親は口を揃えて言う。

 遠い目をして、おそらくは、中国をイメージしながら。

「「せめて、ご両親がそばにいたなら」」

 刹那、白雪が動いた。

 あたしの顔を、白雪が胸にうずめる。

「私はいつでもそばにいるから」

 眼鏡ごとぎゅっと、白雪の胸に押しつけられた。

「人格チェンジがないから、時間が飛ぶ怖さはわからないよ。でも……だからこそ、いつでもいるから。ね?」

 いつもなら、不確定ななにか――お小遣いの使い道から、ときには今回のように視界にいる見知らぬ人が数秒先になにを思うかということまで――を探し、それについて考えるよう、衝動があたしに命令する。

 その急かすような感覚が、不思議と今は感じられない。今、私の全身を包む感覚は、とても心地良いものだった。きっとこれを、安堵、あるいは安心感というのだろう。

「白雪……さっきは、ごめんね……!」

「ううん。私もごめん」

 あたしと白雪が抱き合っていると。

「あのー」

 陽太の――いや榊さんか――場違いな声が聞こえて、あたしたちはバッと離れた。

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