榊竜太 優花の飼育マニュアル

 朝から姫花の家に行った俺は、そこで優花嬢ちゃんの天才的思考力に舌を巻き……そして、おもいっきり睨みつけられていた。

「や、置手紙に書いてあったんだよ! 優花を絶対に一人にしないでくれって。優花はとっても寂しがり屋で、頭の良さは――」

「――ほえ? あ、おはよう」

 優花嬢ちゃんが突然気の抜けた声をあげて間の抜けた挨拶を……違うなこれは。

「姫花になったのか?」

「あー、うん。そうみたいだね?」

「白雪ちゃん!」

「撮ってます、時刻は朝八時二十一分!」

 とりあえず、チラシ裏面の隅っこに、デジタル表記の八時二十一分、丸の中に優の字、右矢印の記号、丸の中に姫の字、とメモ書きを残す。

「え、なになに!? どうしたの、どういうこと!?」

 ついさっきまでめちゃくちゃ頭いいムーブをしていた子が突然話について来れなくなったアホの子みたいな挙動になって、まるでホラー映画でも見ているかのようだ。

「俺たちにも、よくわからん。でも、今優花嬢ちゃんから姫花に切り替わったんだ」

「それはわかるけど……それで、どういう状況?」

 姫花のご両親が慄きながらも見守る中、俺は白雪ちゃんと頷きあい、姫花に諸々を説明した。

「はぁー。優花ちゃん、ホントすごい子なんだね~」

「な」

 どうやら事態を飲み込んでくれたようなので、俺たちは人格チェンジの原因究明を始める。

「起きてから一時間半くらいだな。仮にタイムリミットがあるとすると、俺ももうすぐ陽太少年と変わるのか?」

「でも、昨日姫花お姉ちゃん二時間以上ずっと意識あったよね」

「うん」

「じゃあ、時間経過とは別の切り替わり条件があるってことか。今の流れで眠ったってわけじゃなさそうだし、となると原因は置手紙か?」

「なんて言おうとしていたんですか?」

 俺が今朝目を覚ましたとき、枕元には二通の置手紙が用意されていた。一つは姫花からの状況報告。最後には『優花ちゃんを襲っちゃダメだぞ? 白雪たちをよろしくね、竜太君ファイト!』なんて書かれていて、朝からいろんな意味で心臓に悪かったけど。

 もう一通が、問題と思しき陽太少年からの置手紙だ。

「あー、たしか……」

 俺は、一言一句違わず思い出す。

『榊竜太さんへ。神原陽太です。とんでもないことになって困っているとは思いますが、これだけはどうかお願いしたいことがあります。

 優花のことです。優花を絶対、長時間一人にしないようにしてやってください。日中はできる限り、気心が知れていて状況もわかっている白雪をそばにおいてやってください。白雪は優花の飼育係みたいなものです』

「友達だよ。ひどいよ陽太君」

 白雪ちゃんから淡々としたツッコミが入った。俺は続ける。

『優花は大変寂しがり屋で、昨日両親が中国に発ったばかりということもあり、今は非常に気性が荒い時期です。落ち着かせる際は餅やグミ(※)などの柔らかくておもいっきり噛めるものを与えるといいでしょう。(※)弾力のあるガムでも可』

「パンダが怒ったときのマニュアルだよそれ! 笹やお肉、丈夫で清潔な毛布でも可に書き換えたらもうパンダだよ!」

 白雪ちゃんはどこでパンダの飼育マニュアルを読んだんだ?

 とにかく置き手紙はまだ続く。

『優花はとてもわがままですが、家族以外にはちゃんと礼儀正しく振る舞える子です。もしかすると榊さんを僕と間違えて心無い罵倒を浴びせたり蹴り飛ばしたりすると思いますが、保育園や幼稚園で働く人たちは毎日こんな気分なのかと思うとまだ頑張れるはずです。僕も頑張ります』

「きっと苦労の中にこそ見いだせる可愛さがあると思うよ……そして早く仲直りして……!」

 白雪ちゃんがさめざめと泣いている。とにかく続きを読もう。

『最後に。優花はとても頭がいいのでみんな頼りがちですが、あの頭の良さは不安症からくるものです。用意がやたらいいなと思ったらそれは怯えの合図なので、頭を撫でて褒めてあげてください。結果が出るまでそつない態度を見せると思いますが、それでも内心では嬉しいみたいで、しばらく落ち着くようです。どうか辛抱強くお願いします』

「文章のせいか、朝読んだときは真剣味はなかったんだが……いざ思い出してみるとちゃんと日頃からよく見ていたんだろうな」

「あー、それで竜太君、さっき私の頭に手を乗せてたんだー」

「ああ……。あ、変な誤解するなよ!? これは優花嬢ちゃんを落ち着かせるためだからな!? 姫花からお守り任されて、陽太少年から頼まれたから頭撫でただけだからな!?」

 襲わないように言われたことを思い出し、俺は咄嗟に弁明するが、その心配は無用だったらしい。姫花は優花嬢ちゃんの顔で、ふわりと笑った。

「わかってるよ。竜太君こそ、これから私が陽太君に優しくしても、変な意地張らないでよね?」

 顔は優花嬢ちゃんだったが、その奥に、たしかに姫花の顔が見えた気がした。今は、それで満足だ。

「ったく、当たり前だろ。むしろ俺たちが入っている方が安心できるって言わせてやろうぜ、姫花!」

「うん! 竜太君っ!」

「あー、あー。そろそろ本題戻ってもいいかな二人とも」

「「あ、はい」」

 白雪ちゃんに諭されて、俺たちは素面に戻った。まったく、どっちが大人なんだか。


「――確認だけど、優花ちゃんの頭を撫でたことで、人格が姫花お姉ちゃんになったんだよね。そしてそれは陽太君曰く『内心では嬉しいみたいで、しばらく落ち着く』こと」

 白雪ちゃんはそうまとめたうえで、俺たちに問いかけた。

「つまり、相手を喜ばせることが、人格をチェンジするトリガーになるってことかな?」

 すかさず姫花が首を横に振る。

「どうかな? 昨日、白雪は協力するって言って陽太君を安心させたけど、それだけじゃ変わらなかったじゃない?」

 ぼふん、と白雪ちゃんが一気に顔を真っ赤にして蒸気を吹き上げる。お、これはまさか?

「もしかして、頭を撫でる方だったのかもしれないな。白雪ちゃん、昨日陽太少年に触った回数は?」

「な、なんなの!? なんで二人して私なの!?」

「「いやだって、ねぇ?」」

 俺は姫花と顔を合わせてニタリと笑い、白雪ちゃんが陽太少年にお熱だということを確信した。

「だいたい、喜んで人格が変わるんなら、今頃俺と姫花は切り替わってるよ」

「さっきあれだけ熱い愛情確認したもんねー」

「もー! 爆発しちゃえこのバカップル!」

 さすがに茶化し過ぎたようだ。俺が素直に謝る隣で、姫花がなにかを思いついたように立ち上がる。

「私閃いちゃったかも」

 そう言って、姫花はキッチンに行き、プリンとスプーンを持って戻ってきた。

 封を開けて、黄色くプルンとプリンをすくうと。

「はい、竜太君。あ~ん」

 ちょ、待て、それは……駄目だろう。

「おま、な、なにやって……」

 姫花が手に持つスプーンが、そこにある。いや、優花嬢ちゃんの手だけど、その意思は姫花のもので……。

「と言いつつも素直に口を開けちゃう竜太君であーる」

 俺の思う男子垂涎のラブコメシチュエーションぶっちぎりナンバーワンに位置するそれを防ぐ手立てはここにはなく、俺はただただ姫花にされるがままになるほかないのだ。

 口の中にプリンの甘さが広がった瞬間、俺はソファの左端から右端へ瞬間移動していて、左側で手を繋いで座っていた白雪ちゃんが、瞳に大粒の涙を浮かべていることに気づいた。

 今……この一瞬になにがあった?

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