神原陽太 拳圧……だと……ッ!?

 それは、僕、神原陽太が、中学から高校へ進学する春休みの、ど真ん中の日のことである。

「それじゃ陽太、家のこと任せたぞ」

「優花のこともお願いね、陽太」

 朝、両親が大荷物を持って、玄関先で僕と向かい合っていた。

 いや、別に夜逃げとか離婚とか、重い話じゃない。父さんが会社の都合で中国に一年間の短期出向となり、不安がった母さんがついていくことになったのだ。

 じゃあ僕と、双子の妹の優花はというと、このまま二人でこの家で暮らしてほしいとのこと。両親共に海外に行くのは初めてで不安が募るらしく、僕たちを連れて行きたくないそうだ。

「ん。いってらっしゃーい」

「「リアクションが薄い……!」」

 幸い、この家は両親の持ち家。塀を挟んで隣の敷地は、両親がこの家を買ったときから交流のある天野一家が暮らしている。娘二人を立派な社会人になるまで育て上げ、僕と優花と同い年の白雪という女子も育む天野家は、僕と優花に目をかけることを快く了承してくれた。

 そして僕には母さんを黙らせた家事スキルがある。だから、両親がいなくなっても一年くらいはどうということはない。

 僕の家庭的な面はたぶん、僕が父さんに似たからだろう。父さんは普段家事をしないが、気まぐれでビーフストロガノフとか作る。僕の見た目は父さん似だから、きっと血の都合だ。

 というか、母さんに家事スキルが備わっていない方が問題だ。その血はしっかり優花に継承され、優花は立派に我が家の女王様として君臨している。

 とまあ、両親が家を出て十二時間。

「――で、そろそろ立ち直ったらどうなんだ?」

「るっさい、黙れ」

 優花の部屋の扉越しに声をかけると、罵声が返ってきた。

 今の優花になにが起きているのかというと、ただ拗ねているだけである。

 そう、優花は両親が中国へ立つ今朝、寂しさに不貞腐れて部屋から籠ったまま顔を見せなかったのだ! そして、いまさらそれを後悔しているだけだ。

 我が家の女王様は、いつもいつでもふんぞり返って家臣の僕らにあれこれ言いつける。それはわがまま女王様の常識というより、甘えん坊の暗黒進化系なだけなのだ。

 しかし勉強と運動は完璧なので、我が家の内情を知らない人が挙げられる優花の欠点は身体的特徴が二つだけだろう。

 視力と、貧乳。視力は勉強のし過ぎ、貧乳は遺伝。

 ちなみに背の低さを含めれば三つだが、まあ女子なら一概に欠点とも言い切れまい。身体測定で計測される数値と新体力測定で計測される数値に物理学的な数式の破綻が生じているのが怖いが、病気というわけではないだろうし。

「夕飯。どうするんだ」

「あとで」

「じゃあ食べ終わった食器を片づけるのは誰だ?」

「あんた」

「ならさっさと食べてくれ」

 聞こえるようにため息をつくと、ようやく「わかった」の返事。超めんどくせぇ。

 頭一つ分僕より小さい優花は、部屋から出てきたとき眼鏡の向こう側の目を真っ赤にしていた。放っておけばいいんだろうが、両親がいない以上、誰が優花の世話をするというのだ。

 ……いや、皿くらい自分で洗わせるか。

「今温める」

 そう言って階段を一段降りたところで、優花に服を掴まれた。

「自分でやる」

「あっそう?」

 でもどのみち、皿を洗うのは僕なんだよな……だからそのまま降りようとしたら、服を掴んだままの優花が、ひゃっ、と悲鳴を上げた。

 僕が踵を返して部屋に行くとでも思ったのだろうか。とにかく、読みを外したような短い悲鳴を上げた優花が、バランスを崩して僕の方に倒れ込んでくる。優花の眼鏡が、飛んでいく。

 そして、段数にしてたった五段の階段を仲良く転げ落ちた僕らは――。

「「――んっ!?」」

 ――ぎゅっと抱き合って超濃密なキスをしていた。もちろん、気づいた瞬間揃って飛び退り、僕は一階側、優花は二階側の踊り場の壁まで後退る。

「ぺっ、ぺっ! おま、優花! 寂しがりも大概にしろよ、なに人のファーストキスを――」

「ぺっ、ぺっ! アァ!? 人に舌まで絡めておいてなに乙女チック百パーセントな文句つけてんのよ、そんなセリフ吐くくらいなら女に生まれ変わりなさいよ! ベロチューとかざけんじゃないわよ!」

 超怖いんだけど⁉

「舌っておまっ……! ベロチューっておまっ……!」

「だいたいギルティなのはどう考えてもあんたでしょ、あたし思いっきりおっぱい揉まれてんですけど!? マジ最低信じられない!」

「はぁ!? お前のどこに揉めるトコあんだよ人に文句つける前に牛に頭下げて二つくらい分けてもらってこい! いっそ牛になってこい!」

「コロス」

「誰がミノタウロスになってこいって言ったよ!?」

「らあッ!」

 優花ミノタウロスがその場で勢いよく拳を突き出す。彼我の距離は二メートル、腕一本では到底届かない距離のはずなのに、僕の鳩尾が音を立ててめり込んだ。

「拳圧……だと……ッ!?」

 そして僕は意識を失った。


 次に目を開いたとき、僕は僕の部屋のベッドで目を覚ました。

「あ、起きた?」

 優花が僕の顔を覗き込んできて、僕は咄嗟に飛び退る。

「起きた? じゃないだろ……お前が僕をベッドまで運んだのか?」

「あはは、それが違うんだよね」

「!? あはは!? だよね!? おま、優花じゃないな!? 誰だ!?」

 眼鏡も、生真面目な顔つきも、小柄な体躯も、着ている服だって、優花のものだ。声だってそうなのに、言葉遣いが真っ当な女子のそれ。優花が壊れた……!?

「おおー、さすが双子。わかるもんなんだねー」

「なななななななななな」

「落ち着いて陽太君。私、姫花。お隣の姫花お姉さんだよ~」

「気持ち悪いッ!」

「おおう、そんなドストレートなこと言わないでよ……」

 優花が、肩を落とした。反論も、暴力もなしに……!?

 いよいよパニックが全身を強張らせると、優花は顔の両脇で手を振りながら、なにやら言葉を並べ始めた。

「とりあえず、ここ二時間の流れを説明するね。陽太君は階段の踊り場で気絶した後、榊竜太っていう私の恋人の人格となって目を覚ましたそうです。そして竜太君はお風呂と夕飯を済ませた優花ちゃんと出会って、優花ちゃんを卒倒させちゃったそうです。すると私の意識が優花ちゃんの身体で目覚めて、君の身体に入った竜太君からだいたいの状況を聞きました。で、たぶん気絶したり寝たりすれば人格が変わるんだろうってことで竜太君がそこで寝ます。で、予想通り君が目を覚ましたってわけ」

 言われたことを何度も頭の中で咀嚼しながら、意味不明な部分を一旦削除。

 そして改めて内容の理解に努める。

 ……つまり。

「優花の奴、僕をぶん殴って気絶させたあと、風呂入って夕飯食ったの!? その流れで!? 階段で僕が倒れたまま!? ちょっとは気にしろよ!?」

「ほんと昔から肝が据わってるよね~、優花ちゃん。死んじゃってたらどうするつもりだったんだろうね。隠蔽工作?」

「いや、え? ツッコミ入れるのそこってツッコんでくださいよ……てか恐ろしすぎませんそのもしも話」

「じゃあ――」

 双子の妹、眼鏡をかけた可愛げのない背が低くて貧乳な優花の身体が、右手の平を可愛らしく宙にひと振り。

「――なんでやねん!」

「やっぱりキモチワルイ!」

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