天野姫花 そして運命の歩道橋

 私、天野姫花に初めて彼氏ができて、早いものでもうすぐ一年だ。……って言うにはちょっと気が早いかも?

 三姉妹の次女として生まれた私は、お姉ちゃんが喫茶店経営を始めたことに影響されて、高校を出て製菓系の専門学校に進学。お菓子作りが趣味だったので、それを活かしてパティシエに……なんて、進路はそんな感じで考えていました。

 でもいざ入学してみると、周りは私以上にやる気に満ちた人でいっぱいで、お菓子作りは趣味でいいかな、なんて思ったり。結局、食品衛生責任者とフードコーディネーター三級の資格だけ取って、資格が意味をなさない一般企業の事務職への就職を決めて、卒業した。

 平日は安っぽいデスクトップキーボードの右側四分の一辺りを重点的に叩き、そうでないときは受話器を握っている。休日はお姉ちゃんの喫茶店を手伝う日々。充実していたし不満はないけど、学生時代に恋の一つでもしておくべきだったかなー、と思いもした。

 そんな日々を送っているところに、運命の人が現れたのだ。

「あなたの笑顔が忘れられなくて」

 そんなことを言える人が、私に交際を求めてきたのである! お名前は榊竜太さん。聞けば、私と同い年だそうだ。

 悲鳴を上げて柱の陰に隠れた妹の白雪から「悪い人じゃなさそうだけど……」と控えめに背中を押されて、私はよろしくお願いしますと返事をした。

 そのときの榊さんは顔を真っ赤にしてちょっとかわいかった。まだ中学生の妹には刺激が強すぎたのか、目が虚ろになっていた。


 そんな感じで榊さんとの交際が始まり、時間はあっという間に過ぎていく。

 榊さんは無趣味って言っていたけど、風景の写真を撮るのが好きだというのはすぐにわかった。たぶん、自覚してないんだと思う。

 遊園地に植物園、夏は花火に山に海。水着姿を撮られたときは恥ずかしかったけど、スマホの待ち受けが私の浴衣姿になってて許してしまった。

 紅葉を見に京都でお泊りしたり、クリスマスに彼の家に行ったりしたときにはもう、お互い竜太君、姫花呼びになっていた気がする。


 そうして今日、私は竜太君に逆プロポーズする覚悟を決めた。

 支えたいと思ったきっかけは、バレンタインのお返しでぶきっちょな手作りチョコをもらったこと。何度かお家に遊びに行ったこともあってそこまで自炊が得意じゃないのは知っていたけど、竜太君が本当に生きるための食事しか作れないと確信したのは先月のことだ。

 結局一ヶ月くらいの気合い充填期間を経て、私はいつも通りに映画デートに誘ったのである。

 しかしこういう日に限って、なんだか調子悪そうに見えてしまったりするのだ。

 映画のあとも近場で色々連れまわして、私はようやく不調だと確信した。

 夕暮れの公園に入り、ベンチに座らせ、

「竜太君、映画面白くなかった?」

「いや、面白かったけど……」

 心ここにあらず、という様子。お仕事でなにかあったのかな? 残念だけど日を改めよう、と決めた私に、竜太君が重い声で言う。

「姫花。その、今言うのも変なんだけどさ」

「うん? どしたの」

「結婚してくれ」

 このとき、私は何秒固まっていたのだろう。

「え、えええええええええ!?」

「いや、今日会ったときから様子がおかしいから、今日はダメだろうと思ったんだけど……やっぱり、言わずにはいられないんだ、姫花――」

「ちょちょちょ待った待った待った待った待ってってば!」

 ぜー、はー、と呼吸が荒れる。どうしよう、気合い入れて昨日美容院でセットしてもらった髪が乱れてないだろうかと不安になる。

 ちらりと見た竜太君は、明らかにそれっぽい小箱を両手で握って動きを止めていた。ああ、そんな……!

「あのね、私もずっと、言おうと思ってたの」

「え……おう……」

「竜太君。私と結婚してください!」

 指輪どころか、プレゼントの一つも用意していなかったけれど。

 私からキスしたら、喜んでくれるかな……なんて、場所もわきまえずに抱き着いちゃった。


 明日は二人とも仕事があるから、あまり遅くまで一緒にはいられない。こんなことなら昨日にしておけばよかったと、後悔しながらの帰り道。

 過去最高の高熱を宿した竜太君の手が、私の手に指をずっと絡めている。公園でのプロポーズ合戦から九十分。未だ私はおかしいテンションのまま、でもちょっとだけ余裕が生まれて、過激にからかってみようなんて思ったりしたのだ。

 駅が見える歩道橋の上に、私と竜太君の二人だけ。仕掛けずには、いられなかった。わざと主語を抜いて……。

「ちょっとだけ、痛い……かな」

「わ、悪いっ」

 上目遣いに言ったら、手が離れてしまった。私の目は、ついその手を追いかけてしまう。

「もうちょっとだけでいいから、優しくしてください」

 なんて言ったのは二回目だけど、憶えているだろうか。

 改めて竜太君の顔を窺う。……どうしようもないくらいだらしない顔。

 ま、まだだ! ここまで来たら竜太君からキスさせるのだ、姫花! 行くぞ! せーの!

「私、今晩……竜太君のこと思い出しちゃうかも」

 どうだぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああうわわあああああああ!?

 歩道橋は終わっていた。

 下り階段が、始まっていた。


「――姫花! おい姫花!?」

 竜太君、もっと優しく起こしてよ……。

「じゃないよ!」

 そうだ私たち、歩道橋から落ちて……!

 ぎゅっと、竜太君が抱きしめてくれる。でもなんだろう、ものすごく違和感。

 そのまま耳同士を強くこすって、摩擦熱は頬へ……そのままこすりつけるように唇を奪われた。一つだけわかるのは、私たちは無事だったということだ。

 ここかどこだかも忘れて、今はただ竜太君を求める。

 自然と舌がつんとぶつかったところで、私の理性がプツンと飛んだ。

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