榊竜太 これが運命の出会い
就職すれば、誰もがいただく初任給。みんなはなにに使うんだろう?
俺――
就活に成功し、一人暮らしを始め、それに係る様々な手続きや、引っ越し作業そのもの、そして始まった仕事の日々――時間はすぐに過ぎて、初任給が振り込まれる日になっていたのだ。
じゃあ全額貯金? つまらないだろ、そんなの!
というわけで、初任給が振り込まれた翌日の土曜日、俺は散歩に繰り出した。
もっとも、この一ヶ月まだ自宅から駅までのルートしか歩いていないこともあり、土地勘がまったくない。
新居の住所は暗記したので、迷子になってもタクシーを呼べば帰れる。それが初任給の使い道になるなら、笑い話にできるだろう。
そんなわけで適当に街を歩いていると、街に馴染んだ小さな喫茶店が目についた。二階建てだが、店舗は一階だけのようだ。
木材は壁から屋根まで落ち着いた濃い緑色で、玄関ドアも窓のない手の込んだ模様のもの。だからこそ『警察官立寄所』のシールが浮いて見える。
壁の窓ガラスから見える店内には、若い女性の店員らしき人影が一人分あるくらいか。
店先に黒板の看板があって、城を中心にカラフルなチョークで可愛らしいできになっていた。
喫茶店かぁ……外食はファミレス、待ち合わせは現地集合という俺の人生には無縁の存在かと思っていたが、ちょっと初任給で洒落たものを食べてみるのもいいかもしれない。
おしゃれな鈴の音を響かせながら入店すると、なにからなにまで木でできた調度品が織り成す、落ち着いた雰囲気に包まれる。
カウンター席が六つ。窓際の二人席が三つで、計十二席。主な客層は個人客だろう。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
俺以外の唯一の人間、カウンターの中の若い女性店員さんが、優しく微笑んだ。エプロン姿がよく似合う、柔らかい雰囲気の女性で、年齢は俺と変わらない二十代前半といったところか。
他に客もいないので、店員さんの目の前のカウンター席に陣取る。
立てられていたメニュー表を開いたところで、俺はすぐに自分の置かれた困った状況に気づいた。喉が渇いたわけでもない、小腹が空いたわけでもない。そもそも勝手がわからない。
そんな俺を助けるように、氷水が入ったグラスが手元に置かれる。
「お決まりになりましたらお声かけくださいね」
「あの、店主さん。おすすめってどれですか」
俺は初任給を使いたいだけなのだ。ちょっとカッコつけたが、内心は「俺はこれからどうすればいいんですか」という情けないSOSである。
すると、目の前の店員さんは、満面の笑みを浮かべたのだ。
「えっへへ……店主だなんて、そんなそんな」
不意打ちだった。めちゃくちゃかわいい笑顔。無防備な照れ笑いのまま、彼女は店の奥の階段へ顔を向けて、あどけない声を響かせる。
「お姉ちゃんオススメってどれ~?」
「!?」
いろんな驚きが俺の肘を動かし、激しく氷水の入ったグラスを倒してしまった!
「うおっと!」
太ももが冷たい! やべ、やっちまった! と頭が真っ白になる俺の手元に、乾いた布巾が置かれる。
「あ、大丈夫です。これ使ってください」
「ど、ども……!」
すぐにグラスを元に戻し、机の上を布巾で拭いていると、店員さんが別の布巾を持って早足でカウンターを回り込んでくる。
「まずはご自身のお召し物からですよ?」
店員さんが真っ先に俺のジーンズに布巾を押し当ててくる。
「す、すみません……!」
「私もよくこぼすので、慣れているんです」
「…………」
なにも言えずにいると、もう一人の店員が階段から降りてきた。俺のジーンズを拭いてくれている店員さんと、まったく同じエプロンを着た女の子。ただし、ものすごく若い……というか幼い。働いている以上高校生以上なのだろうが、見た感じは中学生だ。後頭部の左右、触り心地のよさそうな青い鳥の羽の髪留めがおさげを作っていた。
「すみませんお客様、姉が御無礼を」
「あ、いや……」
「えっと。お詫びに一杯無料でお出ししますので……」
「いいって。こぼしたの俺なんだ、むしろ俺の方が悪いというか」
つい遠慮してしまったせいで、余計女の子を困らせてしまったようだ。俺のジーンズに別の乾いた布巾を乗せた店員さんが、立ち上がって少女に目をやる。
「白雪、お姉ちゃんは?」
「まだ帰ってきてないよ?」
「あ、そっか」
姉の方の店員さんは少し悩んで、俺の方を見て人差し指を立てた。
「じゃあ、オススメはブレンドコーヒーですっ!」
「じゃあじゃないよ姫花お姉ちゃん! それは失礼だよ!?」
白雪と呼ばれた妹さんがくわっと目を見開いて鋭いツッコミ。俺はなんとか笑いを堪えつつ、手を挙げた。
「じゃ、じゃあ……ブレンドコーヒーください」
「はい! お詫びなのでお代はけっこうですからね」
どうしてもお詫びをしたいらしい。そりゃ、タダになるのは嬉しいけども。俺は初任給使いに来たんだよなあ……。
「あー、お代払いますからこの日替わりケーキもください」
「ありがとうございますっ」
にこにこと可愛らしい笑顔で、かちゃかちゃと用意してくれる姫花という店員さん。対して白雪ちゃんは、俺と目が合うと申し訳なさそうに顎を引いた。
「すみません、気を遣わせてしまったようで」
「いやいや、初任給使いたくてさ。……というか、すごくしっかりしてるじゃん。高校生、だよな?」
白雪ちゃんは視線を落とし「……まだ、中三です」
……驚きに声が出ない。
「姉二人がしっかりしてないので……私がしっかりしないと……!」
中学三年生、白雪ちゃんのセリフには、はっきりとした重みがあった。社会人になった俺より、よほど苦労の二文字を理解していそうだ。
「お待たせしました、ブレンドと日替わりケーキです」
姫花さんが持ってきたホットコーヒーは、小さな受け皿にティースプーン付き。そして日替わりケーキはチョコケーキと千円札くらいのアップルパイだった。
「へえ、二つつくんですね。いただきます」
俺が小ぶりのフォークを手に取るのと、白雪ちゃんがケーキの皿を見るのが同時。
「えっ? 二つ……?」
「せっかくだから、お客様に試作品の味見をしてもらおうと思って」
「お客様になにさせるの!? ちゃんと完成品を出そうよ!」
「あ、お客様。チョコケーキは無料ですのでお構いなく」
「試作品そっち!? アップルパイが今日の日替わりケーキなの!? パイだよ!」
またくわっとした顔で放つ白雪ちゃんのツッコミが激しすぎて、笑いが堪えきれない。
何十秒と笑い続けたのは、いつ以来だったろうか。
それからは自然と会話が弾んで、とても楽しい時間を過ごした。
おかわり一回無料のコーヒー一杯四百円、日替わりケーキは五百円。請求されたのはアップルパイの五百円だけだったが、俺はおかわりさせてもらってタダにしてもらうのは忍びないと、千円札を姫花さんに渡し、手早く財布をしまって踵を返す。
「では、お釣りが――」
「――いえ、お釣りはけっこうです」
たかが千円百円でアホかと言うなかれ。それだけのことを言えるだけのテンションにまで、この場は盛り上がっていたのだ!
「また来ます」
「お、お待ちしております!」
「…………」
お店を出てからちらりと窓に目をやると、白目をむいて口が半開きのまま立ち尽くす、白雪ちゃんの姿が見えた。
十秒後、ようやく羞恥心を募らせた俺の後悔は、不思議と白雪ちゃんの冷めたテンションの声で再生されたのだ。
――茶番が安いよ……と。
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