家を抜け出して

 母は、日をまたぐ前に、寝室へ引っ込んでしまった。


 父は、年越しを会社の同僚と過ごしていると、母はあらかじめ告げていた。


 のぼるもまた、居間に敷かれた布団にもぐりこんだ。



 雪の中、遠い道のりを歩いてきたおかげで、拡がり漂う冷気に抗して、旗はすっかり眠ってしまった。


 そして――久しぶりに、夢を見ていた。


 旗は、いままで、夢なんて見ることは、ほとんどなかった。それなのに、今日だけは夢を見た。まったく身に覚えのない、自分とは関係のないような夢を。



  ――――――


《目を隠してくださいませ――そして、耳をすませてくださいね》



《……どうです。これで「ド」の音と「レ」の音の違いがわかったでしょう》



《でも……このふたつの音は、同じ鍵盤の上にあるのですから、ほんとうは、なにも違わないのかもしれません。違うと思い込みたい――違わないと困る……そんな身勝手さが、わたしたちにはありますから》



《あなたは……「違う」と「違わない」とが並列するということを、矛盾と感じず、受けいれることができますかしら。あなたは、弱いのかしら――それとも、強いのかしら》


  ――――――



 そんなのぼるの眠りは、玄関の扉がガタガタと音で破られた。夢さえ、割ってしまうほどの、どこかな音だった。


 泥棒だろうか。鍵は閉めてあったはずだ。うちにいるだれかの仕業しわざであろうか――だとしたら、なにをしているというのか。


 旗は、携帯でいまの時間を確認した。、深夜の二時だった。




 怖れに脅えながら、旗は玄関の扉を開いた。開くと同時に、傘を構えた。しかし、そこにはだれもいなかった。


 玄関から、足跡が家の敷地の外へとのびている。そして、足跡は、緩やかに右の方へと折れており、その先はもう見えない。


 泥棒じゃないかと思い、旗は、家族を叩き起こそうと思った。


 しかしその時、玄関にあったはずの長靴が、一足なくなっていることに気づいた。に、気づいたのだ。それは、橙色の長靴――雪水ゆきみの長靴だった。戸締まりのときには、そこにあったはずの、長靴。…………


 旗は、なにかしらの理由で家を抜け出した雪水の後を、追っていかなければならないと思った。なにかあってからでは遅いのだから。


 近くにあるものをひったくって、できるだけ重ね着をして、コートをはおると、ジーパンを穿き、黒色の長靴をいて、ふたたび傘を持った。


 玄関に置いてある小箱の中から鍵を取り出し、ばたばたと施錠せじょうをしてから、それをポケットに突っ込んで、足跡をたどっていった。

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