イグジット――崖から落ちる

「で、就職口は見つかりそうなの」


 母の言葉は、今度こそ、のぼるに向けられたものだった。


「いや、まだだね。さっぱりだ」


「もう……いつまでも学生じゃ困るわよ……」


「わかってるよ、近頃、ほかの大学で教員の募集がかかるという噂があるから、そこが勝負だな」


 母は嘆息たんそくをもらした。しかしなぜか、旗には、母の言葉に、穏やかな風のような響きを感じた。


「まあ……いまの大学からイグジットするわけにはいかないよ。所属先もないまま、ぶらんぶらんと宙づりになっちゃう。だから、もうちょっといまの研究室に籍を置いといて、どんどん実力をつけて、勝負していくさ」


「イグジットって?」


「崖から落ちる、みたいな意味だよ。この場合はね」


 母はまた、重たい息をはいた。今度は、その息の通りの意味しか含まれていないようだった。




 しばらくストーブの前で寝ころんでいると、台所の方から、コンロに火をける音がした。煮物を温めなおしているのだろう。もうすぐ、夜ごはんの時間らしい。


 ふと居間の障子しょうじを開けてみると、雪景色は夜の色気に隠れていた。


 旗は、台所にいる母に声をかけた。


「幹人を呼んでこようか。そろそろごはんだって。雪水ちゃん……だっけ? その子もここで食べるの?」


「嫌なの?」


「嫌じゃないさ」


「じゃあ、幹人にいてきて」


 旗は、重い腰を持ち上げた。自分の身体に積もった雪を、ふりほどいて立ったかのように、妙な抵抗感のようなものがあった。


 母が包丁でなにかを切っている音が聞こえてくる。そして、レンジがチンと鳴った。




 階段を上るにつれて、ふたりの会話が聞こえてきた。


 幹人は、家族には決して振る舞わないような、をしているようだった。旗は、なんだか情けなく感じた。


 旗は、階段をのぼりきらないところから、障子の向こうにいる幹人に声をかけた。


「幹人、母さんがご飯だってよ」


「ああ、兄さん。もうそんな時間なんだね。教えてくれてありがとう。話すのに夢中になっていて、気づかなかったよ。ちょっと待ってね、いま行くから」


 こうした、いい人になりきったような演技は、聞いていてこそばゆいものだった。旗は、ため息をもらした。


 ひとり顔を見せた幹人は、声を潜めて旗にした。


「僕たちは、僕の部屋で食べるから」


「わかったよ……お兄ちゃんが持ってくればいいか?」


「いやだよ……恥ずかしいじゃないか。僕が持っていく」


 そう言って幹人は、旗を押しのけて、バタバタと台所へと向かっていった。


 旗はこの隙に、自室から何冊かの本を取ってくることにした。

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