Halfner, Eggestein, "blanc", 1961, pp. 59-60.

 わたしは、神様のは、大きく分けてふたつだけだと思う。


 救済と裁き――このふたつである。ただし、救済と裁きが、相反する意味を持つ対立する概念であるというのは、誤った考えである。裁きを受けることでしか、救済されえない存在もあり、救済にこそ、裁きを感じうる存在もある。


 しかし古来より、どこまでも走り続ける恋に足をひっかけるということに関しては、それを救済と呼ぶべきか裁きと称するべきか、神々の間で議論の的になってきた。



 ――――これは、わたしがある小説において書いたことである。



 しかしわたしは、神様というものを信じてはいない。ただし、救済と裁きをくだす存在がいることは、たしかであろう。それを立証することは難しいが、こういう風に考えることはできないだろうか。


 もし、わたしたちが、ひとつの物語のなかにいる人物のひとりだったとしたら、わたしたちを《書く存在》は、必ずいる。その存在が、救済と裁きをくだすのだ。


 では、その《書く存在》とはだれを指すのか。比喩どおり、小説の作者ということでは、決してない。わたしは、こう思うのだ。


 わたしたちみなが《書く存在》であり、たえず〈なにか〉を書き続ける宿命を持っている。なんらかの手段によって。原稿用紙とペンに限らず。むしろ、それを使わずに。


 そして、わたしたちは、救いあい、裁きあっている――書くという行為において。


 抽象的なことを言うようだが、この世界に具象的なことなど存在しない、というのがわたしの認識である。


 そして、創作とは、具象的なことを否定した上で、その無根拠を暴くことを生業なりわいとしているというのが、わたしの基本的な考え方である。


 わたしたちが住むこの世界は、目に見える、見えないを問わず、文章の相互作用によって作られている。


 ただし、未来のいずれかの地点において、わたしたち《書く存在》は、書くという行為により、裁きだけを――救いのない裁きだけをくだす存在になってしまう、なんらかの文化を作ってしまうだろう。


 そうならないように願うばかりだが、もしそうなってしまったら、一度、走り続ける恋のような、絶え間ない運動に、足をひっかけるしかないのかもしれない。



   (Halfner, Eggestein, "blanc", 1961, pp. 59-60.)

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