treize

 少女の父親は、その不意打ちに、大仰おおぎょうに体勢を崩して、背中を思い切り石作りの床に打ちつけた。そのせいで、すぐには立ち上がることができなかった。


 やってはいけないことをしてしまった。少女は、しばらくその場から動けなかった。もだえている父親を見ていた――でも、それより、逃げなければならなかった。


「ただではおかないからな……」


 少女は身を固く結んだ。


「警察にでも駆け込んでみろ。呪い殺してやる。どうせお前は…………」


 少女はゆっくりと後退し、ついに、父親に背を向けて走りだした。ものすごい剣幕で、守衛に門を開けさせ、無我夢中に、街灯がまばらにともった、夜の街に飛びこんだ。


 走れば走るほど、肺が痛くて痛くて、たまらなかった。立ち止まったら、いくらでも吐いてしまいそうだった。


 裸足で走り続けた。足の裏は、小石を踏みつけたせいで、血が流れている。


 佛田ふつだの住む宿に着けば、彼が抱きかかえて迎えてくれる――それまでは、走るしかない。それを思えば、走っていられる。


 もう家から、遠くなってきたのに、なぜ少女は走り続けるのか。


 それは、逃げなければならないという恐怖のなかに、佛田のもとへ行きたいという望みが含まれているからだった。


 走る。いまはただ、佛田のもとへ、走る。


 道行くひとびとが、騒々そうぞうしい声をたてているけれど、少女は、まったく気にすることはなかった。




「おい! 車が来ているぞ!」




 少女には、その声さえ、聞こえていなかった。




 突然、少女の目の前に、大きな光が、どんどん迫ってきた。




 そして、目をつむる間もなく、痛いと感じる間もなく、少女は、佛田のもとではない、また別の場所へいく宿命を、受けいれざるをえなかった。……






 そのころ、佛田は、思案にふけっていた。少女が言う通りの道に進んでみようと思いはじめていた。


 このまま、なにもすることなく、ずるずると生きていても、しかたがない。ちゃんと就職して、少女と――どんな困難が待ち受けていたとしても――暮らしていきたい。



 ふと、開け放たれた窓から、なにやら不穏な空気が流れてきたように、佛田は感じた。そして、急に、心がざわめき出した。少女が自分を、呼んでいるような気がしたのだ。

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