第7話 会社員3
次の休日、一人で考えたいことがあるので来ないでくれと由衣に伝えた。
しかし夕方にインターホンが鳴る。由衣だった。おいおい、来ないでくれと言ったのにどうして来るのだろう。こういう時は反対に来てくれと言っておいた方が良いのだろうか。かといって本当に来られたらもっと困る。部屋にはあげたくないが無視する訳にもいかず、とりあえずドアを開けた。
「この間ライブハウスで話してた女の人、誰?」
来るなと言ったのに急に来たことを詫びもせず質問から始まった。一瞬引いたが俺はすぐに不機嫌に変わった。
「同業者だよ」
「健吾あの人と話している時すごい笑顔だった。私、不安になった」
急にこんなことを言われるとは思っていなかった。由衣を不安にさせてはいけない、恋人を不安にさせてはいけない。しかも俺が原因で由衣は不安になっている。不安要素を取り除かねばならない。しかし今の俺にはそんな余裕がなかった。
「出向令が出た、関東だ。三年以上は関東勤務になる」
由衣よりどうしようもない状況になっていると言いたい気持ちがあったのだろうか。同時に由衣には言わなくてはならないことだ。両方が叶った結果の発言だった。
由衣は目を見開いて驚いていた。今どんな気持ちだろう。そしてすぐに自分に嫌気がさした。八つ当たりだ。
「帰ってくれ」
由衣をドアの外に促し鍵をかけた。
由衣には伝えた。あまり良い形とは言えないが。冷静な判断をするために距離をおいたほうが良いのかもしれない。
バンドはどうしよう。これはメンバーに相談するしかない。こうしている間にもライブが入ったりしたら大変だ。バンドメンバーのグループメールで全員に一斉送信した。
返信はすぐだった。バンドは解散しない。俺が出向している間はヘルプを入れて活動すると言っている。そうか、離れていてもバンドは出来るんだ。嬉しかった。感激して涙ぐんでしまった。メンバーに必要とされていることがこんなにも嬉しいなんて。少し落ち着いてきた。
出向先でも業務は営業だろうか。それは行ってからじゃないと解らないだろうから今出来ることを少しずつ整理していこう。
まず最初に名刺入れを出した。仕事でたくさんの人に会ったな。最初の頃はとにかく必死で元気さを売りにしてたっけ。気づいたら注文やらクレームやら携帯が鳴りっぱなしの日々になっているな。担当じゃなくなるからみなさんに挨拶しに行かないと。
見慣れない名刺が一枚あった。名刺じゃなくてカードだった。この前喫茶店でもらったカードだった。そういえば魔法の言葉とか言っていたな。一応見てみた。
【三つ目もあるし三つ選んでも良い。固定観念のおにーさんへ】
白いカードの真ん中に書いてあった。
なんだこれ……。三つ目?
俺の考えは出向に行くとバンドは解散、由衣とも別れるだろうと思っていた。
出向を断るとバンドも由衣とも続くだろうが仕事は駄目になると思っていた。駄目になるというのは左遷や窓際族、最悪自主退職に追い込まれるかもとまで思っている。業務命令に逆らう奴なんて聞いた事がないからな。出向に行くか行かないかの選択だ。
三つ目……。出向に行かず、バンドと恋人も変わりなく、仕事も続ける。あるのか? そんな選択が。カードをじっと見ていると脇に小さい文字で【とりあえず言ってみれば】と書いてあった。
喫茶店で会った女の子を思い出す。クッキーをくれた時も話を聞いてくれた時もずっと笑顔でテンションが高かったな。多分どんなことも愉しめるタイプだと思った。あんな風に底抜けに明るい子の話を信じてみるのもいいんじゃないかと思った。
次の出勤日、すぐに上司に出向辞退を申し出た。理由を聞かれた。
「個人的事情ですが、離れたくない人たちがいます」
「えっまじで? 出向から戻ったあとは出世コースだよ? いいの? まぁ無理強いは出来ないからね。いいよ」
夢かと思うほどすんなり終わった。意外だったがこの流れで勝浦さんの元へ行った。タイミング良く会議室の後片づけを一人でしていた。
「勝浦さん、もし誤解を与えていたならごめん。俺は勝浦さんに好意は持っていない」
勢いが大事だと思って前置きをせずに言ってしまった。勝浦さんは驚いていたがすぐに事情を呑み込んだようだ。
「はっきり言ってくれてありがとうございます。けど周りに良い顔するのはお勧めしませんよ。私こないだライブハウスで見たんですから、姫川さんと富岡さんの彼女さんを」
顔は笑っているが目が笑っていなかった。けれどもあの日、ライブハウスに来てたのか? 全然気づかなかった。背中に汗をかき、俺はドン引きの表情を隠せなかった。
「もう思わせぶりは駄目ですよ。私に興味がない男なんて眼中にないですから」
いつもの爽やかな勝浦さんだった。若い子はドライというか、元気の塊みたいだと思った。
「富岡さん、またライブハウスに連れてってくれますか?」
「勝浦さんが誰かと来るなら歓迎するよ」
「次は彼氏を連れて行きまーす」
勝浦さんはピースサインをして言った。
今日は仕事帰りに由衣の家に行こう。連絡をしたらもう帰っていると返信が来た。
いつもより帰るのが早いな。早く会いたいので良かったが。出向がなくなったことを早く伝えたかったので玄関先で話をした。
「あら、私仕事辞めちゃったわよ」
今日は家にいたのだろう。ラフな格好で髪の毛も巻いていない。ラフな由衣から衝撃的な台詞が出た。目が回った気がした。
「まじかよ……」
俺から自然に出た台詞だった。
「俺、仕事も由衣もバンドも諦めたくない。けれど結婚はまだ考えられない。由衣を養える自信がない」
言ってしまってからハッとした。由衣の気持ちも何も考えずに出てきた台詞だった。この年頃の女性は結婚という単語に対して敏感になっていると聞く。女性誌で取り上げられた男女の結婚観の違いという特集が思い浮かんだ。
「今までの健吾なら俺のせいだとか、新しい仕事を探そうとか当たり障りのないことばかり言っていたよね」
確かにそうだと思う。女性を優先させる、特に恋人の由衣には気を遣ってきた。自分の感情を押し殺しても由衣を優先してきたつもりだ。それが気に入らなかったのだろうか?
「やっと健吾の本音が聞けた……」
由衣が少し涙ぐんでいた。今まで俺は間違った方法で由衣と接していたのだろうか? 無難なことばかり喋る俺に距離を感じていたらしい。そんな時、姫川さんと笑って話をしていた俺があまりにも自然だったので不安になったと言っている。もっと本音でぶつかってきてほしいと言われた。
「店は人手不足だから仕事には戻れるわ。誰にでもすぐに出来る仕事じゃないんだから。それに私、養ってもらうなんて考えてないから。勘違いしないでくれる?」
涙ぐんでいた由衣はどこに行ったのか。いつもの調子できっぱりと言われた。
もう一つ気がかりな事がある。次の日、俺の代わりに出向に行く事になった後輩に話しかけた。もし行くのが嫌ならお前もそう言えばいいと伝えるつもりだった。
「戻って来たら出世が決まってますからね。むしろ今行っておいた方がお得っすよ。出向が終わって結婚して偉くなったらラッキーじゃないですか。富岡さん、ありがとうございます!」
俺に気を遣っている訳ではなく本気で言っていた。若い奴はドライなのか……。
今日の帰り、あの喫茶店にお礼を言いに行こう。
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