第5話 会社員

 富岡とみおか健吾けんごは喫茶店で一人、昼食をとっていた。営業の仕事をしているので外で昼休みを過ごすことが時々ある。


「あら、イケメンが来ているじゃないですか。私が休憩中の間に」

 スマホを見ながらドリアを食べている富岡を見て、片瀬葉月が嬉しそうに呟いた。

「彼はまた来るよ」

 マスターは一言だけ言った。


    〇


 今日の昼休みは喫茶店で過ごした。億劫おっくうだった仕事が一つ片づいたので落ち着いて食べたかった。ランチセットのドリアを注文した。こういう店に来ると洋食が食べたくなる。ホワイトソースの下はピラフになっていてご飯にもしっかり味がついていた。

 今日は新人教育の一環で新入社員全員の前でプレゼンをした。部長クラスも出席した。人前で話す経験をつけるために入社五年目と十年目の社員がプレゼンを行うという伝統行事だ。

 経験を積むためなら毎週とか毎月単位でやればいいのではと思ったがさすがにネタが尽きてしまう。次は五年後なのでその間はネタを考えなくていい。


 木曜日は恋人の由衣ゆいがうちに来る日だ。由衣はアパレルの仕事をしているので俺と休みがかぶる事はない。

 仕事が終わったら由衣を迎えに行く。うちへ来たら由衣は夕飯を作ってくれる。俺は酒を飲まないので純粋に夕飯のおかずが愉しみだ。

 普段は自炊をしているが由衣が来る日は甘えている。それに手料理を披露したいという彼女の気持ちを優先させている。

 由衣との関係は良好だと思っている。小さい頃から姉に「女性を優先させるのよ」と教えられてそれが染みついている。


 仕事も順調だ。目標以上に注文がとれるようになってきたしメーカーの信頼もある。ライバル社の人間と顔を合わせてもそつなくこなしている。

 ライバル社の人間だからといってわざわざ波風を立てる必要はない。ライバルを睨んだからといって注文が増えるわけでもないし争いごとが起きたらこちらも不利益だ。

 趣味でバンドをやっている。メンバー全員が社会人で休日もバラバラだが平日の夜や土日の朝に練習をしている。

 来月はライブも入っている。バンドをやっていると普段なら知り合わないような人と出会う。貴重な人脈も生まれるし何よりライブハウスでは愉しい時間が過ごせる。


 ランチセットに付いてきたコーヒーの残りを一気飲みした。不思議とまだ熱かった。

 良い雰囲気の店だった。いつからあった店だろう? 小路にはあまり入らないので気づかなかったのか。また来ようと思った。



 月曜日のだるさは社会人共通なのだろうか。月曜というか、日曜の夜から始まっているのかもしれない。それでも仕事を始めてしまえば仕事モードになるんだから、なんというか上手く出来ていると言ってもいいのだろうか。


 午後三時を過ぎた。今日の外回り業務は終わったしあとは書類作成をしたら定時で帰宅出来るかもしれない。平和に終わるかと思ったのと同時に会社用の携帯が鳴った。取引先からだった。

「富岡くん、この間変更した資材まだ? 今日中に届くならいいんだけどさ」

 なんだって? まだ五月だというのに一気に体温が上がった。すぐに注文書を確認した。やっぱり今週末の納期だった。まだ数日ある。俺は平静を装い、恐る恐る確認するように言った。

「納期は五月……十五日ですよね?」

「先週変更の電話したじゃん、確か金曜日」


 先週の金曜日。連休明けで電話が連続で来た日があった。俺は普段からスマホのメモ機能を活用している。取引先から電話が来たら忘れないようにすぐにメモをしている。

メモをしている途中で電話が鳴った時がある。あの時か。ミスが重くのしかかってきた。しかし今は取引先を待たせたままにするわけにはいかない。


「失礼いたしました。確認してから再びこちらからご連絡いたします」

 とりあえずそう言って電話を切った。すぐにスマホのメモを確認した。

 先週の金曜日、変更依頼二件、新規発注一件、事務所からの変更依頼一件だった。事務所を含めた変更依頼が三件だが、取引先からの着信履歴は四件あった。事務所からの連絡と混同してしまったのか、しかし自分のミスだ。何から考えたらいいのかも解らず俺はしばらく下を向いていた。


「どうしました?」

 俺のの空気を読み取ったのか、事務所の勝浦かつうらさんが声をかけてきた。ショートカットが似合っている活発な女子だ。彼女がいるだけで周りが明るくなるような爽やかな女子だけれども、今はそうじゃない。俺の負の空気の方が大きい。


「今日までの変更依頼を一件忘れていた。今からじゃ間に合わない。とりあえずリーダーに報告するよ」

「待ってください、リーダーに言ったらどうなるか……」

 勝浦さんが珍しく困った顔をしている。確かに、リーダーに言ったらネチネチ小言が十五分ほど続くだろう。嫌な奴なのだ。


「私、その取引先の事務の子と仲良いんで聞いてみます」

「そうか……助かるよ、手間をかけるけれどよろしく頼む。俺は他のメーカーに聞いてみる」

 一縷いちるの望みが見えた。まさかそういった方向から解決策が見えるとは思ってもいなかった。しかしどこのメーカーもいきなりだときつい。無駄な在庫は抱えていないようだ。

 何社か電話をかけたらついに見つかった。メーカーは違うが同じ材質とデザインを用意出来た。事務所と連携してなんとか取引先に待ってもらった。

 取引先に資材を持って行ったのは十八時を回っていた。遅れた事を深くお詫びした。不機嫌をぶつけられる覚悟をしていたが、意外にすんなり終わった。


 会社に戻ったら勝浦さんがまだ残っていた。おかげで怒られることもなく済んだと報告した。

「あそこの事務の子、社長と仲良いんで上手くやってくれたみたいですね」

 勝浦さんはいつもの爽やかな笑顔で言った。ああ、爽やかだと感じる余裕が戻ったのか。

 俺は体中から汗が流れるほど焦っていたのに……女の子ってこんな感じなのか……。おかげで助かったが。

 もう少し処理が残っているので今日のバンド練習は行けなかった。メンバーに連絡するのを忘れていたので急いでメールを打った。



 木曜日、由衣がうちに来た。メニューは焼き魚だった。

 副菜に竹の子と糸こんにゃくの炒め物が出た。

 竹の子と糸こんにゃくの他に油揚げとほんの少し豚肉が入っている。俺はこのおかずがとても好きだ。竹の子の歯ごたえが良いのも好きだし糸こんに油が絡まって出る甘みは絶品だ。味付けは多分醤油だと思うが加減が絶妙だといつも感心する。子どもの頃は見た目が地味で食べたいとは思わなかったけれども今はかなりの好物になっている。


「この炒め物、丼一杯に食べたい」

 ある日冗談交じりに由衣に言ってみたら「それは副菜だよ」と返ってきた。

 副菜だから少量か。実際この炒め物を丼一杯食べたらどうなんだろう。途中で飽きてくるのだろうか。それも嫌だな、そう思って自分を納得させた。

 由衣に月曜日の出来事を話した。スマホにメモをし忘れたことを。解決はしたのだが自分の中にまだ残っていた。


「だから健吾はスマホに頼り過ぎなのよ」

 はっきりと言われた。

 由衣はスマホと手帳を上手く活用しているらしい。俺は彼女のこのはっきりした言い方が好きでもあるが、こういう時は少しきつい。



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