第5話 浮遊と落下
「捕まえ――」
信徒がシテラに手を伸ばした。
「分かったよ、少しおとなしくしてろ。最後の善意だ」
アーサーは、間一髪のところで目覚ましい動きを見せた。シテラを抱きかかえた瞬間、両脇に立ち並ぶ建物の壁を蹴って、軽業師も顔負けの身軽さで、そのまま駆け上がっていった。泥と藁を混ぜて作られた、民家の脆い煉瓦壁を、アーサーは人ひとり抱えた状態で、驚異の身体能力を発揮した。途中で、窓の雨除けに足を掛け、機敏に壁から壁へと飛び移っていく。
「ちょ、ちょっと、壁を登るなんて聞いてないわよアーサー!」
「その名で呼ぶな。じっとしていろ、僕だって女を抱えるなんて嫌なんだ」
ふとシテラの顔色を伺い、青ざめた彼女を見るや、アーサーは悪戯に笑った。
「それともなんだ、怖いのか?」
愉快気に嘲笑う彼に対して、シテラは頬を膨らませて怒鳴った。
「茶化してないで前を見なさい、馬鹿者!」
そんなやり取りの真下で、小太りの三人組は見上げて罵声をとばすほかなかった。もっとも、二人にその声が届くことはなかったのだが。
シテラは体験したことのない浮遊感に恐怖していた。実のところ、高い場所は身が竦んでしまう質だったのだ。抱き抱えられたまま、眼下も確認できずに、ただ屋上へと近づくのを身体を震わせて見ていた。
壁と壁との隙間から覗かせる青空に吸い込まれるように、影っていた自分の身体に太陽の日差しが照りつける。自分を抱えるアーサーが体勢を変えて走り出した。途端に視界が広くなって、屋根まで到達したのが分かった。広がる景色に、シテラはしばらく見とれていた。
建物の上など気にしたことがなかったが、こうして見ると、毎日城ほどの高さから眺めているよりも、民家の屋根から見下ろす王都は新鮮な感覚だった。
木材で造られた家や、色のついた瓦屋根などは店をしている家で、民家にはそれほど立派な見掛けは施さない。多くは、先程と同じような、藁の混じった煉瓦壁の家だ。そのような家屋のひとつひとつが規則的に密集し、奇妙な四角形が敷き詰められた箱庭のようだった。
呆然と家々を眺めていたシテラは、我に返って自分がずっと横抱きに抱えられていることに辱めを感じた。今更だが、こんな子守りのように抱かれているのは、とんでもない恥辱だった。
「ちょっと、降ろしてちょうだい」
当のアーサーは、特に疲れた様子もなくただ屋根の上を軽やかに走り続けている。
「待て。わざわざ安全な道を探してやっているんだ」
アーサーはぴしゃりと言い切る。
「そうじゃなくて、抱えるのをやめて欲しいの。はしたないもの。ちゃんと着いて来るわよ」
「それこそ足でまといだ」
配慮のない言葉に、シテラは思わず拳を突き出しそうになった。しかし、彼を殴っても痛い思いをするのは己の拳である。なにせ、彼は不死身であり、鋼のような身体を持っているようなのだ。当然、歯が立つはずもなく、ふつふつと煮える怒りが、同じみのように彼女の頬を膨らませた。
「もう、恥ずかしいのよ!この歳で知らない男性にお嬢様抱きされてるなんて」
「知るか、黙れ」
「あんたね、もっと口を慎みなさい。まともに話せないの?」
建ち並ぶ家々の屋上で、男女の言い争いが繰り広げられる。
「お前が女で、しかも僕の嫌いな質じゃなけりゃ、まだ配慮した物言いができたんだがな」
シテラはふと、自分の兄とでものんな口喧嘩はしなかったと、兄の姿が脳裏を掠めた。兄のような最悪な人格の者でさえも、まだ正当な人間だったと思えた。
「ふざけるんじゃないわよ」
「落ちるぞ」
一瞬抱えられた身体が傾いた。
「きゃあ!……もう結構!自分で歩くから、建物から降ろしなさい!」
「そう言ってくれると助かる。だがもう目的地だ」
そう言われ、シテラがアーサーにつられて視線を上げると、そのすぐ先に見慣れた王城が、いつもより高い位置から眺められた。その城の奥に、よく知る屋敷や教会がある。
今日の宴が催されるため、城の前の広場に大勢の人々が集まっていた。式や宴のための華やかな装飾や生花と酒で清められた祭壇が置かれている。間もなく自分はあの上に立ち、膝まづいて、花酒で清められ、神聖なつる草を編んだヒエラ(輪冠)を被せられる。正式な巫女の儀式を行わなければならないのだ。
「うそ、
どうしてお城に向かっているの? 話が違うじゃない」
「お前のような我儘な悪女とする話なんて違くて結構。僕のことを公言したいのなら好きにしろ」
「どっちが悪よ!この人殺しの愚か者!下郎!歩くぼろ雑巾!」
「お前ほんと口悪いんだな。貴族ってのはどいつもこいつも、みんなそうなんだろうな」
アーサーは皮肉を込めて、わざとらしく肩を竦めた。
「引き返しなさい」
「否と言ったら?」
「引き返しなさい!」
どうやらシテラも本気で怒っているようだった。アーサーの腕から逃れようとするが、もちろんアーサーがその力を制するのは造作もない。
「お屋敷には帰りたくないの。宴にも出たくない。だから逃げ出してここまで来たのよ。お願い、連れて帰らないで」
「お前、宴に出たくなくて逃げ出したのか。なに不自由なく生活できる場所をなぜ手放す」
アーサーの言葉に、シテラは過剰に反応して、彼を睨みつけた。
「あなたには分からないわ、放浪人!引き返さないなら降ろしなさい!降ろしなさいったら降ろしなさい!」
シテラは力いっぱいもがいた。すると途端に、びくともしなかったアーサーの腕がふいに緩んだ。強ばった身体は解放され、シテラはつかの間宙を舞った――。視界の端で、アーサーはそのまま通り過ぎてく。口元が僅かに微笑を浮かべていた。
「え?」
瞬間、背筋が凍りついた。震撼した。己の本能が、非常の事態であると、胸の奥で警鐘を鳴らしている。身体が妙にゆっくりと沈んでいく。自分が一体どういう状況なのか、大方検討がついた。
「きゃぁぁぁあああ!!」
視線が下へ落ちていく。ちょうど、どこかの路地の真下のようで、そこには無数の鉄管が縦横無尽に行き交っていた。
「く……」
シテラは、思わず目の前を風のように過ぎていく鉄管に、手を伸ばした。だが、触れた指先に、なにか焼けるような痛みが走って、掴むまでに至らない。
シテラは半ば喘ぐように息をして、過ぎ行く物体に、手を回そうとするが、結局は自身の重みに負けて、ずり落ちていく。
肌にしっかりと風を感じる。それがたまらない恐怖だった。髪が、普段とはありえない風向きで揺らめいて、視界を塞ぐ。自分は今、もののように落下していっているのだ。
「やだ、やだ」
鼓動が信じられない速さで波打つ。心臓が喉から這い出てくる感覚だった。鉄管の一本が額を打ちつけていった。とっさにそれに手を伸ばし、力いっぱい握りしめた。片手がしっかり掴めたら、今度はもう片方の腕を引き寄せ、両手を組んで確実に固定した。
「はぁ、はぁ」
こんなに精一杯息をすることは、もうこの人生で他にないだろう。脈はとてつもない速さで蠢き、今になって冷や汗が伝い始めた。打ちつけた額に、まるでなにか住み着いたような違和感が、息をする度感じられる。今一度視線を落とすと、自分の身体ひとつ分の高さまで地面が迫っていた。
「万事休す。危なかったな」
上の方で声がした。見上げると、光を背に影った人影が――アーサーが、こちらを見下ろしていた。
死にたがりアーサー 詠三日 海座 @Suirigu-u
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