第4話 罪人と巫女
アーサーの首筋に刃が交わると同時に、シテラの短い悲鳴が路地に反響した。が、彼女の耳に届いたのは、皮膚を裂く鈍い音ではなく、不快な金属音だった。
シテラはそっと、顔を覆っていた指の隙間から、周囲を見回した。大男は顔を歪めたまま硬直していた。どこにもアーサーの血はとんでいなかった。それどころか、彼はさっきまでと同じように突っ立ったままだった。
「おい、刃が折れちまってるぞ。日頃から手入れしておけ。全く、こう見えても直撃じゃかなり痛むんだから、なっ」
最後の言葉と同時に、アーサーは男の胸ぐらを掴んでそのまま背負い込むと、軽々投げ飛ばしてしまった。男は身体をまともに打ち付けられ、呻くだけで立ち上がることはなかった。
「う……なにが……」
アーサーは男に返事をすることもなく、後ろで棒立ちになっているシテラを睨んだ。
「分かったろ、この路地はこういう所だ」
シテラの手が微かに震えていた。
「こ、こわ……かった」
とたんに彼女の瞳から涙があふれ出し、次々と頬を伝い始めた。
「いちいち泣くな、面倒臭い。この路地はもう出るぞ」
「あの……」
「なんだ」
「助かった。ありがとう」
そう、美女は微笑んで、おもむろに頬の涙を拭った。ある種の芸術や美学を思うような彼女の仕草や、彫刻のような容姿は、王国の歴史上最も美しいとされた初代巫女レディスの神力を、余すことなく受け継いでいるのだと人々の間でささやかれている。
そんな麗しき姫巫女を、アーサーは怪訝そうに見た。天界の神々のもとで過ごしてきた彼にとって、人間らしい感情の起伏には不慣れで、共感できずに困惑するものであった。
「分かったから、ぐずぐず泣くな」
「ひ、人が感謝の気持ちを示しているのに、失礼ではなくって?わたしのような崇高な身分の人間からの謝意に無礼な態度をとる愚か者なんて――」
「よく喋る人間だ」
ぴしゃりと文句を遮って、アーサーはのびきった大男の懐をまさぐり、金銭を探った。すると、不意に人の気配を感じて、アーサーは路地の入口を振り返った。ほとんど同じ拍子で声が響いた。
「やっと追いついた」
シテラは飛び上がって、声のする方へ目をやった。大通りの明るみを背に、数人の人影が見えた。まさかと思ったのはアーサーだけではないようで、不安に顔を歪めたシテラと目が合った。
「シテラ様、そんな薄汚い所に長くいらっしゃると御身が穢れてしまいます。どうぞこちらへ」
「そこの者、伏せていろ」
人影がアーサーを指して怒声を響かせた。
「下郎が。汚い手で巫女様に触れおって」
人影は紛れもなく、追ってきていた酒太りの信徒たちだった。
「こうなると思ってた」
アーサーはシテラに迎えだぞ、とだけ呟くと、奥へ続く道へと足を向けた。今更だが、ここは裸足で歩くには心地よい湿土だなどと、もはや一人になった気で、悠々と思考を他に巡らせていた。
「待て貴様!」
信徒の一人が窮屈そうに一本道に足を踏み入れた。後の二人も続いて、路地を駆けてくる。アーサーは全く歩みを緩める気配はなかった。彼らに捕まえられるようなつもりは端からない。
奥の暗がりへと進む彼を、シテラが引き止めた。
「待って」
掴まれた服の袖を、アーサーは振り払った。
「不用意に触られるのは不愉快だ。僕には関係ない。目まで腫らして、僕が泣かせたのだと思われる。僕は行くから、全部そこでのびている無礼な大男のせいにしろ、いいな? 生憎だが――」
「つべこべ言ってないで。まだ鬼ごっこは終わっていなくってよ?」
不敵な笑みを浮かべてシテラは小首をかしげてみせた。身の毛がよだつほどの不穏な予感を、アーサーは捉えた。
彼女は今度は、ふふっと声に出して笑った。この時アーサーは、彼女から一目散に逃げているのが正解だったし、アーサー自身もそう思った。だが、それを許すまいと、シテラはアーサーに顔を近づけ、そっと耳打ちした。
「あなた、アーサーでしょ? 皇帝殺しのお尋ね者で知られる、例の“死にたがりアーサー”ね?」
「……だからなんだ」
アーサーは内心で固唾を呑んだ。自分に語りかけるシテラの艶やかな唇が、奇妙なほど滑らかに言葉を紡いだ。
「わたしを連れてこの状況を打破しなさい。連れ戻されたくないのよ。もし今わたしを放っておけば、いつあなたのことを話してしまうか分からないわよ?わたしがひと声かければ王都の出入口はすぐに封鎖されて、警備が行き交うわ。 困るわね? なんて言ったってあなたは大罪人、皇帝殺しの“死にたがりアーサー”なんだから」
シテラの微笑みは先程より深く、勝ち誇った表情を隠しもせずに、アーサーを見上げていた。
「悪女め」
「なんとでも言いなさい。全て公言してやるんだから」
腰に手を当てて、鼻高々に返答を仰ぐ目の前の女に、アーサーは否と逃げ去ることができなかった。
このやりとりの間にも、三人組は躊躇なく迫り、アーサーとシテラとの距離を詰めていく。
「坊主、そこに伏せていろ」
前を行く信徒が、後ろ手で剣を抜いた。この行動を見ると、まだ彼らは、アーサーの正体に気づいていないようだった。考えるのも束の間、シテラがわざとまくし立てて詰め寄った。
「さ、どうするの?」
アーサーは迷った。低脳だと見下していた小娘に、まんまと嵌められたのだ。
彼女の脅しなど、したいままにさせておいても、下界が住みづらいことに変わりはない。しかし――
「お前、短剣が僕の首を触れたのを見もしないで、あの一瞬だけで、そうだと気づいたのか?」
シテラは黙ってアーサーを見つめ返した。
あの時、アーサーの首に刃が触れるその時まで、彼女は目を塞いだままだった。彼女は剣が折れたのを見ただけで、アーサーが不死身の――処刑台の刃が貫通しなかった、あの“死にたがりアーサー”だと悟ったのである。そこにはなにか、彼女が別の情報を携えているように思えた。
「なにか僕について知っていることがあるのか?」
「知らないわ、本当に直感しただけよ」
国々で指名手配されている凶悪犯を扱って、一体この巫女はなにを企んでいるのか、彼女が自分についてなにか知っているのか、考える時間は今は残されていない。
信徒がすぐ側まで迫っていた。行動を起こさないアーサーに、シテラは段々青ざめて、真剣にアーサーを催促した。
「ほら早く!」
信徒の一人が、シテラに手を伸ばした――。
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