第3話 逃亡

 女は立ち上がって、服についていた土を丁寧に払った。


「よくって?こんな神聖な衣装を身にまとった女人を泥で汚すような男は地獄に落ちるのよ。恥を知りなさい、この放浪人!」


「なんだ、自分で転んだんだろ。恥を知るのはお前の方だ」


 アーサーは女を貴族かどこかの令嬢かと悟りつつも、普段と態度を変える気など毛頭なかった。


「お、お前ですって!?あなた私を誰と心得て?」


「知らん」


「は、こ、この無礼者!先代のパミサ方にもその生涯咎められて、あの世で苦しめばいいわ!」


「なんだお前。どこぞの貴族かと思えば、教会の姫巫女か。パミサなんて身分が、僕に構っているほど暇じゃないだろ。今日がなんの日か、知ってて一人でほっつき歩いてるのか?」


「あら、そう、そうなのよ。私今いけないことをしている最中なんだわ」


 と、彼女が態度を変えたその時だった。奥から数人の足音と声がした。大通りを外れれば迷路のような路地が無数に存在するテリロイ街道。奥へと進めば進むほど、光は届かず、影は濃くなっていく。


「シテラ様ぁ!おかしいな 」


「返事などなさるわけがないだろう。たしかここを曲がられて――あ」


 路地の暗がりから、白装束の男が三人現れた。狭い一本道の先に、アーサーたちが捉えられないはずがなかった。


「シテラ様、そんなところに!」


 呼ばれた巫女の娘、シテラは、


「あら行けない、見つかったわ」


 と言って、アーサーの腕をつかむと、もとの大通りへと走り出した。


「おい、なんだ」


「シテラ様、もう勘弁なさってください」


 男らの悲痛の声をあげる。シテラに敬意をはらった口調に、彼女と似た白を基調した衣服。彼女の従者であり、この国を支える大教会の信徒であることは、間違いないだろう。

 呼ばれたシテラは振り返って舌を出した。


「疲れたのなら、そこで休んでおけばいいわ!あなたたちのような、お酒で膨れたぽんぽこお腹なんかで追いつけるはずなくってよ」


 シテラは去り際にそう吐き捨てた。


「釈然としない言葉を使うな。富裕層の人間はみんなそんな口をきくのか?」


 幼気な言葉が妙に毒突いて、アーサーは幼少期に読んだ童話の語り口調を思い出した。つかの間呆れて手を引かれたままでいた。二人は光の方へ、灼熱と人だかりの中へ飛び出した。


「失礼、通してちょうだい。急ぎの用があるの」


 シテラは流れゆく川を突き進むように、人と人とのわずかな隙間を、ちょいちょいとくぐり抜けていく。一方、後ろで引っ張られているだけのアーサーは、馬にでも引きずり回されている気分だった。

 後方を確認すると、体の大きなあの三人組には、どうもこの街道を横断するのは難しいようだ。しきりに、こちらになにか叫んでいるが、そんな声など、この大勢の人の中では届くはずもない。

 人だかりをかいくぐって通りを渡り、今度は別のわき道に入り込んだ。道幅が極端に狭く、見上げると、両側の建物が高くそびえ立ち、はみ出た屋根や、家屋から家屋へと繋がれた無数の鉄管で、時折空が塞がれている。雨が多いこの街では、生活水とは別に、雨水を流すための鉄管が、そこら中にに網羅しているのである。

 この路地に、アーサーは見覚えがあった。


「おい」


「黙ってついてくるのよ。今さらなに言ったって、あなたが私の逃亡に関与した疑いはもう晴らせないわ。お咎めなんだから〜」


(こいつ僕を巻き込もうとしているのか)


「そうじゃない、その道あまり奥に進まない方がいいぞ」


「そんな脅しは通用しないわ。こう見えて私、怖いものなんてなにもないくらい肝の座った女なんだから」


「それならいいが、この通りは訳の分からん物騒な連中がうろついている。身の保証はしないぞ」


 足を進めながら、シテラはアーサーを振り返った。


「そんなの、あなたも巻き添えよ、なんとかしなさいな」


「僕は特に危険に晒されることはない。でも、お前は違うだろ」


「なによ、もっと分かりやすく――」


 シテラが言いかけたその時だった。


「言ってるそばから……!」


 アーサーはシテラの手を引き寄せた。前を走っていたシテラは、いきなり後ろへ引かれ、派手に尻もちをついた。


「痛いわねぇ、なにをするの!」


「黙れ。とっとと立て」


 頭上のアーサーの声には、先程までと違って緊張した声色だった。シテラはアーサーが睨む視線の先を目で追うと、正面に岩を思わせるような大男が、行く手を阻んでいた。

 上半身は服がはだけ、日に焼けた屈強の体は、ちょうどシテラの胴が二つ分だろうか。髪は整えず、ぼさぼさで、鍛えられた巨体を除いては、ずいぶんみすぼらしく、その貧困さをありありと語る。

 シテラは大男に視線を向けたまま、ゆっくり立ち上がった。


「……この人、どこから現れたの」


「上からだ。見えなかったのか?」


「……全然」


 アーサーはシテラの力ない返答を聞いて、彼女の顔色を伺った。やはり、環境が整えられた世界で育った貴族なのだと実感した。怯えた目、竦みかけた足、うわずった声。彼女にとって「怖いもの」とはいったいなにを指すものだったのだろうか。今となっては彼女すら、知る由もないだろう。


「これだからお前みたいなやつは嫌いなんだ。特に女」


 ため息まじりでつぶやくアーサーに、シテラが言葉を返す余裕などなかった。


「よぉ、坊主。その娘を売り飛ばしゃあ、いくらで売れると思う?」


 大男が野太い声でシテラを示した。


「僕に限っては話す言葉を慎め。人界でも最下の屑が、どうして僕より上になった気で話かけている」


 男は怪訝そうに眉根を寄せ、盛大に笑い声をあげた。


「そうか、そりゃあ悪かったなあ」


 目尻を拭って、男はおもむろに短剣を抜いた。

 シテラは見慣れぬ鉄の代物に後ずさる。アーサーは淡々とそれを制した。


「そこで止まれ。お前が逃げたら、犯人扱いで巻き添えを食らっている僕はどうする。ほんの気まぐれでお前を庇っているのも馬鹿らしいだろ」


 アーサーの言葉を聞き終えて、男はまたげらげら笑い出した。それもつかの間、男が身をかがめたかと思うと、アーサーの喉元に目がけて直進した。アーサーの首元にそれが交わると同時に、シテラの短い悲鳴が路地に反響した。

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