2.君のための温か生姜湯(3)
◇◆◇
お布団の中で寝返りを打って、うっすらと目蓋を開けた瞬間に凍りついた。
十センチも離れていないところに、空くんの寝顔があった。
嵐が去って外はいい天気なのかもしれない。閉めた雨戸の隙間から朝日が細く差し込んでいて、和室の中が視認できる。空くんの寝顔も細部までよく見えた。
……寝てるのに不細工にならない顔ってなんなの? 二十代だから肌に弾力あるってこと?
つい至近距離でまじまじと観察してしまう。薄い二重、生え揃った睫毛。顎はうっすらと髭が伸びていて、男の人だ、なんてわかりきったことを思う。
よく寝てるけど……今何時?
音を立てないように空くんから離れ、スマホを確認して目を丸くした。
午前九時半。
いつもだったら、空くんに叩き起こされてる時間だ。
毛布に包まった空くんの肩にそっと触れると、思い出したように私の心臓はまた自己主張を始め、小さく深呼吸。
雷はもう鳴ってないし、吊橋効果はおしまい。ドキドキする理由なんてないし、やましいことするわけじゃないんだから!
そう自分に言い聞かせ、冷静を装いつつ空くんを揺すると、不快そうな声を漏らして顔をしかめられた。
声を出せれば、「朝だよ」って簡単に起こせるのに……。
空くんはうっすら目蓋を開けて私の顔を見つめるも、すぐに再び目を閉じてしまう。
「もう少し……」
すると、空くんは身体を丸めて少し身震いした。眠いのかと思ったけど、なんだかだるそう。もしかしたら、毛布一枚だけじゃ寒かったのかも。
変な意図じゃないから、とまた自分自身に念を押し、そっとその額に触れてギョッとする。
熱い。
今度こそ余計なことは考えず空くんを揺すって起こし、スマホの画面を見せた。
『熱ありそう。風邪?』
ぼんやりした
「実は昨日、風邪っぽいから病院で薬出してもらってて……夜もあまり眠れなかったし、悪化したかも」
昨日、家を空けていたのはそういう理由だったのか。
昨晩はなんだかんだ私はよく眠ってしまっただけに、悪いことをした。毛布一枚で私の隣じゃ、そりゃ寝心地も悪かっただろう。おまけに具合も悪いのに、ぐずる私の相手をして、眠るまで背中をポンポンしてくれてたなんて……。
スマホにまた文字を入力した。
私に家事能力は皆無だけど、できるだけのことはしたい。
『何か欲しいものある?』
空くんはゆっくりと視線を動かし、やがて口を開いた。
「生姜とねぎ」
ものすごく気が進まない。気が進まないどころか、家から出るのは怖い。
……だけど。
久しぶりに羽織ったコートのポケットにお財布と付箋とボールペンを入れ、スニーカーに足を突っ込んで玄関のドアを開けた。
昨晩の雨はなんだったのかと思うような、眩しく強く、暖かい日差しだった。玄関や家の前の道路は落ち葉だらけで、あちこちに嵐の痕跡がある。
通勤のピークはとうに過ぎているし、午前中の下町に人通りは多くない。誰も私のことなんて気にしない、怒鳴られたりしないと思えど、つい周囲を窺って警戒してしまう。
生姜とねぎを買うだけなんだから……!
ビクビクしながら通い慣れたコンビニの前を通過し、ものの数分で目的の八百屋さんに到着した。八百屋さんは店を開けたばかりのようで、六十代半ばくらいの女性の店員が品出しをしている。
以前ここに来たときのことがフラッシュバックして途端に心臓が音を立て始め、脈が上がって喉の奥が詰まったようになった。買いものに来ただけなんだからと必死に自分に言い聞かせ、生姜とねぎ生姜とねぎ生姜とねぎ……と心の中で呪文のように唱え続け、視線を動かして探す。が、たくさん並んだ野菜の中から目当てのものをなかなか見つけられない。
お店の人に訊くしかない。でも……。
「いらっしゃい。何かお探しですか?」
立ち尽くしていたら、とうとう店員の方から声をかけられてしまった。
二週間前と同じ。その女性は、人のよさそうな笑みで私を見ている。
咄嗟に逃げ出したい気持ちになったものの、ぐっと堪えてコートを掴んだ。布越しにポケットの中の付箋とボールペンに触れ、ハッとして取り出す。空くんのおかげで、筆談にもだいぶ慣れた。
《ショウガとネギください》
私が差し出した付箋を見ると、女性は少し驚いたような表情になったものの、けどすぐに笑顔になった。
「生姜ならこれね。ねぎは……」
空くんが欲しいねぎの種類がわからなかったので、長ねぎと万能ねぎの両方を買うことにした。余っても、きっとおいしいご飯にしてくれるだろう。
小銭を渡してお会計を済ませ、気抜けするくらいにすんなりあっさりミッションはコンプリート。
「ありがとうございましたー」とにこやかに言ってくれる女性店員に小さく会釈して、さっさと家に帰ろうと回れ右しかけた――
けど。
――いつも、これくらいわかりやすければいいのに。
ふいに空くんの言葉が脳裏に蘇り、私は女性店員に向き直った。
自分がわかりにくい人間だと思ったことはこれまでなかった。
でも声が出なくなって、言葉を、思っていることを伝えるのが、今まで以上に難儀になって。
伝えようとすることなんて、すっかり諦めてた。
付箋を再び出し、震えそうになる手に力を込めて文字を書く。
《先週もこのお店に来たんですけど》
付箋を一枚差し出して、すぐに二枚目を書いてまた渡す。
《話しかけてくれたのに、声が出ないって伝えられなくて》
伝えたい言葉が入りきらなくて、三枚目の付箋に書いた。
《変な態度取ってすみませんでした》
女性は三枚の付箋を自分の指先に貼りつけ、まじまじと見て私に目を戻し、そして。
「――あぁ、なんか、思い出したかも!」
ケラッと笑った。
「うん、思い出した思い出した! 先週だよね? あれこれ話しかけちゃって、うっとうしかったかなって反省してたんだわ」
私が頭を下げると、「そんなの気にしてなかったのに!」と女性は豪快に笑って私の肩をパシリと叩く。
「こっちこそごめんねー。近所に住んでるの? またいつでも来てよ!」
そして、女性は「これはおまけね」と人参を一本くれた。
太くて立派な人参。
思いがけず視界の人参がゆらっとしかけて、込み上げたものを慌てて呑み込んだ。
帰りがけにコンビニでスポーツドリンクや冷却シートも買って帰宅すると、空くんは寝間着のジャージ姿のままソファで身体を横たえていた。私がソファで寝ていると空くんはすぐに蹴落とすけど、優しい私はもちろんそんなことはしない。
――その代わり。
その額に、冷たいスポーツドリンクのペットボトルを押しつけた。
空くんはビクリとして目を開き、私の顔を見るなり飛び起きる。具合が悪いところに申し訳ないけど、今までの仕返しができたみたいでちょっと楽しい。
買いもの袋を開いて買ってきたものを見せると、空くんはスポーツドリンクのペットボトルを手に取った。
「ありがとうございます」
《ショウガとネギで何作るの?》
「生姜湯とおかゆ……」
生姜とねぎを手にキッチンへ向かおうとする私の手首を、空くんはすかさず掴んだ。
「エマさんに作れるとは、これっぽっちもまったくもって一ミリのカケラも思ってませんから。せっかく買った野菜を無駄にしないでください」
キッチンに踏み入ってもないのに、無駄にするって断言された。
けど、空くんの手はやっぱり熱いし……。
仕方ないので、ダイニングの椅子をキッチンの方に移動させて空くんに座ってもらった。
「生姜、水で洗いましたか? そしたら皮剥いて……包丁は要りません、小さいスプーンとかありませんか? もっと丁寧に! 身まで削いじゃうじゃないですか!」
額に冷却シートを貼りブランケットを膝にかけた空くんが、容赦なく指示を飛ばしてくる。どうしても私の料理の腕を信用できないと主張するのでこうなった。
生姜の皮を剥いて、下ろし器ですり下ろしていく。祖母の調理道具がひと揃え残っているのはわかっていたけど、下ろし器の存在を初めて認知した。紗和がいた頃も食事は任せっきりだったし、料理らしい料理をしたことはほとんどない。実家暮らしの頃も、母がオーガニック野菜を使った完璧な栄養バランスの食事を毎食きっちり作っていたので、私の出番はなかった。
「その鍋に、水五〇〇ミリリットルと、蜂蜜大さじ二、片栗粉とレモン汁を小さじ二ずつ入れて……」
蜂蜜と片栗粉、それにレモン汁までうちにあるんだ!
空くんが買っておいたものなんだろうけど、色んな食材や調味料が常備されているって事実に、人がちゃんと暮らしている家って感じがする。
すっかり整理され、よその家のもののようになったキッチンの戸棚をパタパタと開けて、目当ての片栗粉などを無事発見。喜々として空くんに見せた。
「エマさん、楽しそうですね……」
そう言う空くんはとっても疲れてる。
鍋にすり下ろした生姜、水、蜂蜜、片栗粉、レモン汁を入れてよく混ぜ、中火で煮込むことしばし。くつくつ煮立ってきたら火を止めて、生姜湯の完成。
同じように指示を受け、ねぎがたっぷりのおかゆもなんとかでき上がりそう。
こうして、ダイニングでちまちまと熱い生姜湯を飲んでいる空くんに、私は付箋を突き出した。
《私だってやればできる》
空くんはごちゃごちゃ言う元気がないのか、「そうですね」との返事は弱々しい。
私は続けて付箋に書いた。
《でも、一人じゃできないから》
空くんは私の文字を見つめ、温かいマグカップを両手で包み込む。そのマグカップは、白地に紺色の楕円が整然と並んだ柄のもの。空くんに選んでもらった、専用のマグカップだ。
《一昨日はごめん。出てかなくていいよ》
その付箋を見ると、空くんはふんっと鼻を鳴らした。
「紗和さん――姉さんからは、メールの返事、まだないんですか?」
もう一週間近く経つけど、紗和からの返事はまだなかった。
コクリと頷くと、空くんは口元に手を当てて少し黙る。
「……まぁ、それならもう少しここにいます」
私がホッとして表情を緩めると、空くんもわずかに笑みを浮かべた。
「エマさん、マジでどうしようもないし」
生姜とねぎが効いたのか、その日の晩には空くんの熱は下がった。
◇◆◇
それから二日後の昼過ぎ。すっかり復活した空くんは、八百屋さんでもらった人参をすり下ろして、人参のシフォンケーキを作った。
《すごい!》
手を叩いてオーブンを見ている私に、空くんは洗いものをしながら苦笑する。
「こんなに立派なオーブンレンジがあるのに、使ってなかったとかマジでもったいないです。ミキサーもケーキの型も、道具は一式揃ってるのに」
祖母は料理が上手な人だった。キッチンに色んな道具があることは紗和にも教えられていたけど、それを今度は弟に指摘されるとは。
シフォンケーキは約三十分で焼き上がり、家の中を香ばしい匂いでいっぱいにした。細長いナイフを使って型から取り出されたケーキは、ふんわりしていて明るい橙色。
空くんが切り分けようとしたのを咄嗟に手で止め、和室から取ってきたスマホで写真を撮った。
「エマさんも写真とか撮るんですね」
私があまりスマホを持ち歩かないから意外に思ったらしい。
《家族サービスに使うの》
きょとんとした空くんをキッチンに残し、私はリビングのソファに移動してメールを作った。今日は日曜日、毎週恒例の近況報告を母に送らないといけないのだ。
『今朝はシフォンケーキ作りにチャレンジしました。まだ食べていませんが、きっとおいしく作れたはず……(写真を添付します)。仕事は変わりありません。もうすぐ春ですね』
オーガニック大好きな母が好きそうな、人参のシフォンケーキ。これを作ったのが、知り合ったばかりで同居している男の人だなんて、母には逆立ちしても予想できないだろう。愉快すぎる。
送信ボタンをタップしたところで、ソファの後ろから空くんに覗き込まれた。
「誰かにメールですか? 紗和さん?」
空くんは、紗和のことを「姉さん」と呼んだり「紗和さん」と呼んだりする。複雑な家族構成ゆえなのかもしれない。
メモアプリに文字を入力して空くんに答えた。
『母。私がいかにがんばってるかの報告』
実家を出てここで暮らすことになった五年前、近況メールを毎週送る約束を母とした。もともとは毎週のように様子を見に来ようとする母をどうにかするための苦肉の策だったけど、まさかそれが五年も、三十路を過ぎても続くことになるとは思ってなかった。
でも、母の監視が緩くなるなら、毎週のメールくらいなんてことない。
メールでなら私はいくらでも理想の娘を演じられるし、おかげで母は、私がやっと〝まともな社会人〟になれたと信じきっている。お盆には帰省しろと言われるだろうけど、それまでは声のこともきっとごまかせる。夏まではまだ四ヶ月以上あるし、その頃には声も出るようになってるはず……多分。
用の済んだスマホをソファの上に放り出して脱力していると、空くんは大きなタッパーにでき上がったばかりのシフォンケーキを半分詰めた。
「エマさん、おでかけしますよ」
どこへ行くのかわからなかったし、二人で出かけるなんて周囲の目も気になったけど。
……まぁ、いっか。
空くんが誘ってくれるなら家を出るのは怖くないし、私のことなんて私が思ってるほど世間の人は気にしてない。私は素直に立ち上がった。
こうして空くんがまず向かったのは、例の八百屋さんだった。
「あら空くん!」
この間の女性店員が、パッと顔を明るくして手をふる。対する空くんはというと、私には見せたことのない爽やかな笑顔でそれに小さく手をふり返していた。
八百屋さんの店員さんと空くん、まさかの仲よしだった。というか、外面よすぎ!
「ユーコさん、甘いものはお好きですか?」
女性店員は「ユーコさん」というらしい。「もちろん!」と笑んだユーコさんに、空くんはシフォンケーキの入ったタッパーを渡す。
「あら素敵! シフォンケーキ?」
「おまけに頂いた人参で作ったんです」
「おまけ?」と首を傾げてから、ユーコさんは私に気づいて「そういうこと!」と手を叩いた。
「あなた、空くんの彼女さんだったの!」
彼女!?
これはさすがに否定しておきたい。コートのポケットをまさぐって付箋を取り出した、けど。
それより先に、空くんが外面の笑みで「そうですね」なんて応えてた。
八百屋さんやドラッグストアなどで買いものをして帰宅し、空くんは買ったものを整理するとエプロンを着け、一服する間もなく夕食の準備を始めた。
すかさずそれに詰め寄って、その鼻先に付箋を突きつける。
《なんで彼女じゃないって言わなかったの?》
空くんはわずかに眉を寄せて、私の指先から付箋を剥がす。
「深い意味なんてありませんよ。わかりやすさを優先しただけです。今の状況を説明する方が面倒じゃないですか」
それはごもっともに聞こえた。聞こえはしたけど。
ものっすごく、もやもやする。
私を無視して袋から取り出したジャガイモを洗おうとするので、邪魔するように水道の蛇口に付箋を貼った。
《ウソはよくない》
空くんは付箋を剥がしてシンクの三角コーナーに捨てる。
「なんでゴミ屋敷に住んでた人間が、こんな些細なこと気にするんですか」
《ササイじゃない!》
じゃあ、と空くんは、折衷案でも提案するような、色恋の話をしているとは到底思えない口調で切り出した。
「嘘じゃなければいいってことですか? 付き合います?」
けど、軽い口調に反してその目はまっすぐ私を射貫く。
焦げ茶の瞳に、ポカンとした私の顔が映っていた。
……付き合うって、男女交際の? 彼氏と彼女的な?
投げかけられた言葉を頭の中でくり返して静かに混乱していると、空くんは私から興味を失ったようにその目を手にしたジャガイモにふいと落とした。と同時に、一拍遅れて私の全身の血が沸騰する。
本気で言ってる? 意味わかってる?
体中に響く胸の鼓動を聞きながら、空くんの横顔を穴があきまくりそうなくらい見つめた。なのに空くんは表情をピクリとも変えず、ジャガイモにすっかり集中している。空くんにとっては私の存在なんて、ジャガイモ以下でしかなさそう。
冗談なのか、深く考えてないのか、なんなのか――
ポーン、と間抜けな電子音が響いた。インターフォン。
「誰か来たんじゃないですか?」
そんなことわかってるし!
「俺、今忙しいんで、暇な人が出てください」
モニターなどない旧式のインターフォンで、声が出ない私には使えない。
ジャガイモに夢中な空くんを質問攻めにしたい気持ちでいっぱいになりながらも、渋々玄関に向かってドアを開けた。
……ドアを開ける前に、せめて覗き窓から相手を確認するくらいのことはすればよかった。
立っていたのは、フードつきの深紅のコートに、タイトなパンツとヒールの高いショートブーツといった格好の女性だった。赤みがかった茶色のふんわりしたショートヘア、大きなリングのピアス、つけ睫毛でパッチリした目元に、艶のあるピンクの唇。
見るからに私とは違う陽気な雰囲気のその女性は、にぱっと笑って小さな紙袋を掲げてみせた。
「先輩、お久しぶりでーす。声、まだ出ないんスか?」
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