2.君のための温か生姜湯(2)


          ◇◆◇


 温かいお布団の中で身体を丸め、ぬくぬくうとうとまどろんで、今朝はすごくゆっくりできてるなと思ってからハッとした。

 スマホに手を伸ばし、時刻を確認してギョッとする。

 午前十時。朝だ。

 ぬくぬくはどこへやら、自らかけ布団を剥いで飛び起きた。

 空くんに怒られる……!

 けど、リビングにもダイニングにも、空くんの姿はなかった。ダイニングテーブルには、ラップをかけたサラダとホットケーキが一人分だけ置いてある。

 昨晩のやり取りが、苦い後味と共に頭を過ぎった。

 まさか、本当に……?

 寝癖だらけの髪に寝間着のジャージ姿。こんな格好でうろついてたら鼻で笑われるって思いながらも、落ち着かなくて早足で二階への階段を上った。

 紗和の――空くんの部屋は、空っぽだった。

 この家は足音がすごく響くし、他人の気配があれば嫌でもわかる。空くんが家にいないことは、確認するまでもなくわかってた、けど……。

 と、開けたドアの裏を見て、思わず安堵のため息を漏らした。

 ボストンバッグ、空くんの荷物がある。どこかに出かけてるだけみたい。

 気がつけば脈が上がってた。大きく深呼吸して、嫌な音を立てる心臓を宥めつつ、そっと一階に戻る。

 紗和がいなくなってから、ずっとこの家に一人だった。ほんの数日前に知り合って、勝手に居座ってる同居人なんて、いてもいなくても変わらない……わけ、ない。

 ――エマさん、ここに一人でいない方がいいんじゃないですか?

 図々しいし鬼だし何かとヒドい同居人でも、誰もいないよりマシだと思ってしまうくらいには、今の私は弱ってる。空くんが言うとおりのダメ人間。

 空くんに、あんな付箋、貼りつけなきゃよかった……。

 すっかり冷たくなっているホットケーキを電子レンジで温め直して食べたあと、やることもないので掃除をした。掃除機をかけて、ウェットシートでフローリングの床を拭いて。家中を掃除するのに三日もかかったのに、最初から綺麗なら掃除はすごく楽ちんだった。

 掃除をして洗濯もして、正午を回っても空くんは帰ってこない。お昼ご飯はどうしようと思い冷蔵庫を見てみると、ラップのかかったお皿があった。大根のサラダとあんかけ肉団子。《昼。電子レンジで温めて》と書かれた付箋が貼ってある。

 空くんの字は、角ばっていて、読みやすかった。




 お昼ご飯を食べるともはややることもなく、思い立って祖母の本棚から一冊抜き取ってはみたものの、数ページで睡魔に負けた。

 そうしてソファでどれくらい寝ていたんだろう。目蓋を開けると窓の外は薄暗くなっていて、風が強いのか窓枠がミシリと音を立てた。

 と、キッチンから聞こえてくる物音に気づき、そっと身体を起こす。

 空くんが、夕ご飯の準備をしてる。

 昨日までだったら、昼寝でもしようものならソファから蹴落とされてたのに。何の妨げもなくぐっすり眠れてしまったことを複雑に思いつつ、付箋を手にそっとキッチンに近づいた。


《どこ行ってたの?》


 食器を洗っていた空くんは横目で私の付箋を見て、すぐに手元に目を戻す。


「それ、エマさんに関係あります?」


 いつものクールな横顔。でも、その口調は明らかに冷たい。

 そうですね、私には関係ありませんね。

 なんてことは付箋に書けず、ソファに戻ってふて寝した。

 その晩の夕食は、ひたすらに気まずかった。

 作ってくれた酢豚はさっぱりしていてすごくおいしかったけど、《おいしい》付箋はもちろん渡せず、黙々と完食して終了。下げた食器を手早く洗うと、空くんはさっさと二階の自室に引っ込んでしまった。

 ポツンとリビングに残される。

 家がギシギシと鳴る音ばかりが耳についた。外は風が強いだけでなく、いつの間にか雨まで降りだしている。リビングと和室の雨戸を閉めると、雨風の音は少しマシになった。さっさとお風呂に入って、温かい布団に包まって寝よう。

 二階からはまったく物音がせず、空くんのことが気になったけど、様子を見に行けるような図太い神経はしていない。ひと晩経てば、少しは話せるようになるかもしれないし。そそくさと着替えを持って風呂場へ向かった。

 雨風がさらに強くなってきたのか、風呂場の小さな窓までカタカタと揺れる。遠くから雷の音まで聞こえてきて、心臓が痛くなってきた。余計なことは考えないように、早く寝よう早く寝ようと心の中で唱えつつ、いつもの三倍速で髪と身体を洗い、脱衣所兼洗面所で身体を拭いてバスタオルを巻いたときだった。

 足元が揺れそうな地鳴りみたいな音が耳をつんざき、直後、視界がふっと暗くなる。

 停電……!?

 心臓が跳ね、これでもかとビクついた私はバスマットの端を踏んで足を滑らせた。

 声が出ない喉からはヒュッと変な音が出て、さっきの雷に負けない大きな音を立てて背中からすっ転ぶ。

 視界はまっ暗だというのに、あまりの衝撃に目の前に星が散った。湿っぽくなった洗面所の床は空くんが綺麗にしてくれたおかげかよく滑り、すぐに身体を起こせない。

 間を置かず、階段を駆け下りてくる足音がした。


『エマさん? さっきの音、なんですか?』


 洗面所の扉の向こう、廊下から空くんが呼ぶ声が聞こえる。さすがに風呂場には付箋を持ってきてないし、そもそもこの暗さじゃ文字なんて書けないし。

 じんじんと痛む背中をさすりつつ、仰向けの姿勢からどうにか座り姿勢になって、閉まったままの洗面所の引き戸に拳をぶつけた。


『エマさん?』


 もう一度拳をぶつけようとしたところ、引き戸が開いて空回った。


「大丈夫ですか?」


 視界を射る懐中電灯の光に目を細め、床にぺたんと座ったまま頷く。

 懐中電灯がしまってある場所、よくわかったな……あ、大掃除したからか。

 空くんが来てくれた安堵感で、一気に熱い血が耳の先まで巡った。ついぐずっと鼻を鳴らして俯いたら、空くんが私の前に片膝をついてしゃがみ込む。


「どこか痛いんですか?」


 首を横にふった、そのとき。

 再びドンッと大太鼓を叩くような雷鳴がして、私は文字どおり声にならない悲鳴を上げて目の前の空くんの首にしがみついた。


「……もしかして、雷、苦手なんですか?」


 空くんの首に両腕で掴まったまま何度も首肯する。

 と、なぜか空くんも身体を硬直させた。


「わかりました。わかったんでその、いったん離れてください」


 家の外では、まだ雷がひっきりなしに鳴っている。今だけは置いていかれたくなくて、離れてという言葉に反してしがみつく腕にさらに力を込めると。


「エマさん、頼むから、とりあえず服着てください!」


 必死な言葉に、あ、と思って空くんから離れた瞬間、身体に巻いていたバスタオルがはらりと落ちた。




 懐中電灯を借りてなんとか着替え終えると、空くんが洗面所にあるブレーカーを上げてくれて停電は解消された。


「……少しは落ち着きましたか?」


 空くんが淹れてくれたお茶をすすりつつ、ソファに座ってコクコクと頷いた。申し訳ないし恥ずかしいし情けないしで、顔をまともに見られない。心臓は壊れた秒針みたいにずっと鼓動が速いまま。


「俺もシャワー浴びてきますね」


 できればどこにも行かないでほしかったけど、止めることもできず、リビングで一人になった。遠くの雷鳴が耳に届いてまたしてもビクついてしまい、お茶が少しソファに飛んだ。

 お茶はまだ半分残っていたけど、ガラステーブルにカップを置く。隣の和室から毛布を持ってきて頭から被り、身体を小さくするとようやく深く呼吸ができた。

 雷が怖いって、どこの小学生だよ……。

 毛布の中で、膝を抱える腕に力を込める。雷というか、怖いのは大きな音なんだと思う。以前はまったく平気だったのに、それこそ会社を辞めてからだ。電車が通過するような音や、車のブレーキ音なんかでもすぐに心臓が痛いくらいに鳴ってしまって、冷や汗が出そうになる。

 仕事では、電話越しに大声で怒鳴られることなんてしょっちゅうだった。それを思い出すからなんだろうか。

 ……空くんはよく怒るけど、怒鳴ったりはしない。それだけはよかった。

 そのまましばらく、毛布の中でじっとしていると。


「何やってるんですか」


 いつものように、空くんに毛布を引っぺがされた。

 見えるところに付箋がなくて、文句も言えずに口をパクパクさせる。


「怖いなら、さっさと寝ればいいんじゃないですか?」


 そんなことを言いながら、空くんがソファの私の隣に座るやいなや。

 また雷が鳴って、咄嗟に目の前にあった空くんの腕にしがみついた。風呂上がりの空くんは温かくて、石鹸とシャンプーの匂いが濃い。

 すると。

 空くんが小さく吹いた。肩を震わせ、クツクツと笑い始める。


「エマさん、面白すぎ」


 こっちは本気で寿命が縮む思いなのに……っ!

 顔を赤くして睨むと、空くんは愉快そうに私の頭をポンポンと撫でた。言いたいことも言えないしいっぱいいっぱいだしで、しがみついた空くんの腕をつねる。


「痛っ……あぁもう、怒らないでくださいよ」


 頭を撫でていたその手で、空くんは私の髪をくしゃくしゃにした。


「俺がそばにいれば、少しは落ち着きますか?」


 ふいに顔を覗き込まれ、鼻先が触れそうな距離に瞬間的に耳の先まで熱くなる。

 いつもバカにしてくるし、小憎たらしいはずなのに。向けられた眼差しが予想外に優しくて、少しは落ち着いたはずだった鼓動がまた速くなってしまう。

 ……吊橋効果。

 別に、空くんのことなんて意識してないし! 雷のせいで最初からドキドキしてただけだし!


「エマさん?」


 返事を急かされてまた心臓がビクリとし、それをごまかすように頷くと、静かに嘆息して空くんは私から離れた。


「いつも、これくらいわかりやすければいいのに」


 空くんはぶつぶつ言いながら口元に手を当てて考え込む。


「じゃあ――」




 頭まですっぽり被った布団の向こうから、空くんの声が聞こえた。


「電気、つけたままにしますか?」


 答えないわけにもいかず、手探りでスマホを充電器から外し、メモアプリに文字を入力した。


『消して』

「わかりました。おやすみなさい」


 かちかちと電灯の紐を引っぱる音がする。そっと布団から目元だけ出すと、和室は暗くなっていた。

 暗闇の中、隣を窺うとすぐそばに空くんの気配があって、慌てて顔を背ける。

 そばにいてほしい、とは思ったけど。

「じゃあ、隣で寝ます」とか提案してくるなんて予想外すぎる。

 一つの布団はさすがにダメだろうと考えていたら、空くんは二階から毛布を取ってきた。かくして、布団に包まった私と毛布に包まった空くんは、さして広くもない和室で並んで寝ることになったのだった。

 ドキドキしっ放しの心臓はもはや疲労困憊。こんな状況になって、空くんが成人男性であることを改めて実感した。

 歳、いくつなんだろう。二十代後半だとは思うけど。空くんのこと、紗和の弟ってことくらいしか知らないのに、隣で寝てるとかどうなんだ私……。

 ふいに背中の辺りの布団を軽く叩かれて、またしても痛いくらい心臓が跳ねて身体を固くした。

 仮にも大人の男女だし。やっぱりこんな状況、まずかったのでは……。

 けど、ポン、ポン、というリズムは一定で、それがぐずる子どもを落ち着かせるようなものだとすぐにわかった。

 空くんはきっと、私のことなんて、手のかかる大きな子どもみたいにしか考えてない。当然のことだしホッともしたけど、ほんの少し残念な気持ちも混じる。

 ……いや、残念ってわけわかんないし。ただの吊橋効果だし。

 自分にそう言い聞かせながらも心臓は休むことなく音を立て続け、遠くで鳴る雷の音はすぐに気にならなくなった。そのことがまた悔しいし、負けた気分。


「……エマさん、家から出るの、そんなに嫌なんですか?」


 ふいにポツリとかけられた声に身を固くした。

 答えるならスマホに手を伸ばさねばと思うも、返事を催促されることもなく、空くんの手は変わらずリズムを刻み続けている。息を詰めて動けないまま、雨風の音だけが部屋に響く。


「気に障ったなら、すみません」


 その言葉に、昨日「出てけ」なんて伝えたことを後悔した。

 大人げないことをした。さっき空くんが、「いつも、これくらいわかりやすければいいのに」ってぼやいたとおり。

 私は声が出ないのを言い訳に、伝えようともしてなかった。

 私のことを空くんがなんにも知らなくてわからないのは当然なのに、癇癪を起こして八つ当たりしてしまった。

 私の方こそ謝りたい。でも……。

 背中に与えられる心地いいリズムを崩したくなくて、結局そのまま動くこともできず、いつの間にか眠りに落ちた。

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