2.君のための温か生姜湯

2.君のための温か生姜湯(1)

 冬は寒くて得意じゃないけど、お布団の中は別。毛布に包まって猫みたいに身体を丸め、ぬくぬくうとうとするのはすごく好き。会社を辞めてよかったことの一つは、このぬくぬくタイムをゆっくり楽しめるようになったことだ。

 今朝もカーテンの隙間から差し込む朝日を眩しく思い、かけ布団を目元まで引き上げて、枕元で充電器に差しっ放しになっているスマホをたぐり寄せた。画面に触れると、秘密基地の中の懐中電灯よろしく、布団の中でスマホが青白い光を放つ。

 空くんがうちに居座ることになったので、昨日の昼前に『弟がうちに来たよ』って紗和にメールしたのだ。返信はまだなし。

 空くんも連絡がつかないみたいだし、やっぱりネット環境がない場所とかにいるのかな……。

 一方、日曜恒例、母からの定例メールはきちんと届いていた。


『今週はどのように過ごしましたか?』


 メールの到着は今日の午前七時。半日以内に返さないと電話がかかってきかねないので、ちまちまと返信する。


『ちょうど朝のランニングをして家に帰ってきたところです。総務の仕事もこれといって問題ありません。最近、上手に蒸しパンを作れました』


 ホットケーキミックスと牛乳で、電子レンジを使って蒸しパンが作れるなんて知らなかった。ホットケーキミックスなのにホットケーキ以外にも使えるなんて、人類はすごい発明をしたものだ。

 嘘しか書かれていないメールに誤字脱字がないことを確認し、ポチッと送信――した次の瞬間。

 勢いよくかけ布団を引っぺがされ、唐突に冷たい空気にさらされ悲鳴を上げた。……こんなときでも声は出ず、口をパクパクしただけだけど。


「今何時だと思ってるんですか?」


 突然の仕打ちに心臓がバクバク鳴って身体が固まり、この無慈悲な行いをしてきた人物を確認することすらできない。

 いや、今この家にいる時点で、誰かはわかってるんだけ――ど?

 今度は視界が回って身体が浮いた。とうとう敷き布団まで回収されて、畳の上に転がり落ちてしたたかに頭を打つ。さすがに朝からヒドすぎる。

 涙目になって抗議の視線を空くんに送ったけど、まったく効果はなくて鼻で笑われる始末。


「さっさと起きないのが悪いんですよ」


 握りしめたままのスマホを見ると、午前八時前。いつもだったら、気持ちよく二度寝してる時間なのに!

 じんじんする後頭部をさすりながらようやく上体を起こした。文句を言おうにも声は出ない。そんな私に、空くんは手早く布団を畳みながら指摘してくる。


「色々と見えてますよ」


 色々……って、おへそ!

 寝間着のジャージがめくれ、お腹が丸出しになっていて慌てて整えた。至福のぬくぬくタイムは強制終了、おまけにおへそまで見られてもう泣きたい。


「そのヒドい格好、見られたくなかったら明日からは自分で起きるんですね」


 顔を赤くして枕を投げつけたけど、コントロールが悪くて襖にぶつかって落ちた。空くんはカラカラ笑いながら和室を出ていく。

 昨日、何がなんでも同居なんて無理! って断ればよかったのかもしれない。

 とんでもない同居人ができてしまった……。




 言われたとおりに身支度を調えてダイニングに行くと、空くんがピザトーストとサラダの朝食をダイニングテーブルに用意し終えたところだった。青と白のチェック柄のエプロンがすごく様になってる、というか自然だ。

 エプロンも昨日、買ったのかな。

 ここで暮らすことを勝手に決めた空くんは、昨日、当面必要な生活用品と大量の食材を買い込んでいた。おかげで私はまともな朝食にありつけているわけだけど。

 私が席に着いたのを見て、「いただきます」と向かいの席でピザトーストを食べ始める空くんを、ついまじまじと観察した。


「なんです?」


 なんでもない、と言うように首を横にふって自分のマグカップに手を伸ばす。

 誰かと、それも知り合ったばかりの他人と朝ご飯を食べてるの、やっぱり変な感じ。

 紗和の弟ではあるけど、年下の男の子を住まわせてるって、世間的にはどうなんだろう……でも、スッピンもおへそもすでに見られてるし、今さら変に意識するのもバカバカしいというか、バカにされそうというか。

 ピザトーストを食べ終えると、まだ午前九時前。会社を辞めて以来、こんな時間に布団の外に出ていたことって、どれだけあったかな。

 色々思うところはあれど、リビングのソファでまったりしていたら、また眠くなってきた。朝ご飯も食べたし、ここらで一服……。


「なんでまた寝ようとしてるんですか。十時間も寝たくせに」


 予想はしてたけど、やっぱり空くんは許してくれない。


《一日寝て過ごしたい》


 私の切なる願いを綴った付箋は、容赦なくびりびりに破かれた。


「エマさんに、これ以上寝てる暇はないんですよ?」


 そう空くんが差し出してきたのは、ゴミ袋。

 こうして、大掃除がスタートすることとなった。

 空くんは昨日、掃除道具や洗剤などもひととおり買い揃えたらしい。買いもの袋からスポンジや使い捨てのウェットシートなどを次々と取り出して並べていく。


《私は何をすればいいの?》


 どっちが家主だかわからないような質問をした。もはや私が何をしても怒られる気がしてならないので、任せるに限る。


「エマさんは、和室、リビング、キッチンにある不要なものを選別して、ゴミ袋に分別してください。物が多すぎて、これじゃ掃除もできませんよ」


 なんだか、すごく難しいことを言われた気がした。


《捨てるの?》


 私が書いた付箋を見て、空くんはわずかに眉を寄せる。


「もしかして、ここにある古雑誌とかよくわかんないハギレとかこういうの全部、エマさんの大事な宝物だったりするんですか?」


 もちろんそうじゃない、けど。


「捨てるの、気が進みませんか?」


 気が進まない、とはちょっと違う気がする。でもこの感情をうまく言葉にできなくて、付箋一枚を書くのに一分近くかかった。


《捨てていいと思う?》

「それ、俺が決めるんですか?」


 ――だったら、さようなら、です。


 一昨日の夜みたいに背中を押してくれるなら、なんでも捨てられる気がする。

 空くんの言葉をじっと待っていると。


「……エマさんが大事にしているものは取っておけばいいし、使わない、要らないと思うものは、捨てればいいんじゃないですか?」


 期待していた言葉とはちょっと違って、至極当たり前のアドバイスをされた。

 まぁでも、私が要らないと思ったものは、捨ててもいいのか。

 当たり前のことを当たり前に言ってもらえて、心のどこかがスッとした。

 空くんはエプロンにマスク、おまけにゴム手袋と完全防備で、洗面所を掃除してくるとリビングを出ていった。この家がどれだけ汚いと思ってるんだろう。それとも、私の汚いという感覚の方が麻痺してるのか。

 エプロンもマスクもせず、私はゴミ袋を手に和室に向かう。空くんが畳んでくれた布団を押し入れにしまい、八畳ほどのスペースをぐるりと見回した。衣類が収まっている小さなタンスと衣装ケースのほかは、乱雑に物が積み上がっている。

 まずは押し入れのそばに積んである、インテリア雑誌から手をつけることにした。母に懇願して亡き祖父母の家で暮らすことを認めてもらい、引っ越した直後に定期購読していたもの。家のことは好きにしていいと母から許可を得ていたし、せっかくの一軒家、インテリアや内装に凝ってみようと思ったのだ。思っただけで終わったけど。

 約五年前の雑誌は、日焼けして紙が変色していた。内容も、きっともう流行遅れ。ほとんど読んでないから、もったいなくてそのままにしてたけど……。

 一昨日、ストールをゴミ袋に押し込んだときの感覚を思い出す。

 これは、さようなら、だ。

 雑誌をまとめてビニール紐で束にし、リビングの外に運び出すと少しスペースができた。次は隣に詰んである菓子箱。中は……レジンセット。こんなの買ったっけ? 何かの景品?

 和室の壁際にごちゃっと置いていたものを、一つずつ発掘するように手に取っていく。袋から出してもいない何かのノベルティ、変なロゴのTシャツ、料理教室のパンフレット、ウクレレ、色鉛筆セット……。こんなものあったっけと思うような物が続々と出てきて、しまいには捨てるかどうか選別するのも面倒になってきた。存在すら思い出せなかったものは、少なくとも今の私には必要ないものだろう。

 ゴミ袋二つがいっぱいになった頃、キッチンの方から物音がした。見ると空くんが何かを作っていて、すぐに視線に気づかれる。


「お昼はおそばです」


 もしかして、引っ越しそば?

 掃除は途中だったけど、正午を回ったので一緒におそばを食べた。温かいつけ汁には焼きねぎと豚肉が入っていて、コンビニのおそばに慣れていた私にはすごく豪華に思える。

 空くんは、午前中のうちに洗面所とトイレを綺麗にしたらしい。掃除っぷりは見ていないけど、手際がよさそうなのはわかる。さぞピカピカになったことだろう。


《前はどんな仕事してたの?》

「ホテルの客室係」


 すごい! と目を輝かせたら、鼻で笑われた。


「嘘です」


 付箋を丸めて投げつけた。またバカにして!

 唇を尖らせた私を横目に空くんは落ちた付箋を拾い、悪びれた様子もなく訊いてくる。


「エマさんは、少しはゴミ捨ては進みましたか?」


 おそばを食べ終えたので、ここぞとばかりにゴミ袋二つを指し示した。


「これだけゴミを出しても部屋に変化が見えないって、ある意味感心します。すごい、あっぱれです」


 こんなに嬉しくない「あっぱれ」も珍しい。

 ちょっとは褒めてくれてもいいのにと膨れていたら、「あれは?」と空くんはリビングと和室の境、襖の辺りを指差した。私が和室から一時的に待避させた四角い小箱の山ができている。


《マグカップ》


 前職とは似ても似つかないコールセンター業務に就くことになってしまい、ストレスの溜まる日々の中、私が唯一〝自分ご褒美〟と称して買い続けていたのがこのマグカップだった。

 オフィス近くの百貨店にARABIAのショップがあって、かわいすぎないどこかクールな柄や、フィンランドの児童書のキャラクターの柄が気に入った。一つ三千円から四千円くらいで、お給料日に一つずつ買っていった。同じ柄でも色違いがあれば買ったし、シーズンごとに発売される新作もチェックした。

 けど、普段使いしているのは結局四つくらいで、ほかは箱にしまわれたまま。マグカップばかりで五十個以上、かなり場所を取っているのはわかってる、けど。

 これは捨てられないものだ。

 使ってないなら捨てればいいのに、とか言われそうな気がして、自分ご褒美に毎月買っていたものだとせっせと付箋に書いて説明する。


「大事なものまで捨てろなんて、誰も言ってませんよ」

《いいの?》

「いいも何も……これはエマさんが、がんばった証ってことなんですよね?」


 何度も頷いた。ちゃんと言いたいことが伝わってよかった。


「こんなにあるなら、お店でも開けそうですね」


 空くんは小箱の前にしゃがむと、マグカップを箱から取り出して一つずつ見始める。

 お料理が得意みたいだし、食器にも興味があるのかも。

 と、いいことを思いついた。

 付箋を書いて、空くんの手の甲に貼りつける。


《一つ、好きなの選んで》

「選んでどうするんですか?」

《空くん用にする》


 どうせ使ってなかったものだし、専用のマグカップくらい用意してあげてもいいかなって思ったのだ。

 けど、すぐに早まった気がした。空くんがここに居着いてるの、容認してるみたい。納得したわけじゃないのに。

 まぁでも、そもそもカップの柄なんてどうでもいいか……。


「ちゃんと選ぶんで、ちょっと待ってください」


 でも、予想外に空くんは真剣な眼差しでカップを選び始めた。

 いつも、これくらい素直ならかわいいのに。

 じっくりカップを選んでいる空くんを観察していたら、ふいにその目がこっちに向けられてドキリとする。


「エマさんは、ぼさっとしてないでさっさと掃除を再開してください」

 やっぱりかわいくない。

 新しいゴミ袋を手に、そそくさと和室に戻って作業を再開した。




 なんとか和室の整理を終えた頃には日が傾きかけ、すっかり夕方になっていた。これまでに出たゴミ袋は六つになったけど、リビングとキッチンはまだ手つかず。

 大掃除、いつ終わるのか……。

 ゴミ袋を玄関に待避させて、ソファに勢いよく腰かけて脱力。空くんになんと言われようが、今日はもう掃除しない!

 座ったまま両腕を伸ばしてストレッチしていると、二階を掃除していた空くんがやって来た。空くんも今日の掃除は終わりなのか、エプロンを外して丁寧に畳みながら訊いてくる。


「夕飯の買い出し、一緒に行きませんか?」


 ストレッチしていた腕を下ろして、顔の前で大きくバッテンを作って拒否する。


《つかれた、ムリ》

「貧弱ですね」


 息を吸うようにさらりと毒を吐き、空くんはコートを羽織って出ていった。

 玄関のドアが閉まる音が聞こえて、すっと波が引くように家の中が静かになる。

 一緒に買いものなんて、周囲からどう見られるかわかったもんじゃない。それに……。

 ゆっくりと身体を倒し、ソファの上で横になった。声が出なくなって、会社を辞めてすぐのことが脳裏を過ぎる。

 買いものに行きたくない最大の理由は、別にある。

 コンビニと家の往復しかしていなかったある日。思いきって、近所に買いものに出かけた。夕方になると地元の人が買いものに来る、商店が並ぶ通りがあるのだ。

 安い八百屋さんがあって覗いていたら、「こっちも安いよ」「これおまけにつけようか?」と中年女性の店員に矢継ぎ早に話しかけられた。

 けど、そのときは手元に付箋がなく、スマホも家に置きっ放しだった。声が出せないことをうまく伝えられなかった挙げ句、気まずい空気になって逃げ帰ってしまったのだ。

 些細なことだと自分でも思う。でもあれ以来、外で買いものはできてない。店員と会話をしなくても平気なコンビニが精いっぱい。

 たかが買いもの、されど買いもの……。

 ぼうっとしているうちに眠ってしまい、買いものから帰ってきた空くんに容赦なくソファから落とされた。



          ◇◆◇



 それから三日、一日八時間のペースで掃除をし続け、遂に完了した。

 リビングの床が広い……!

 今までは散らかった物の合間を縫うように歩いていたのに、フローリングの床が綺麗に見えている。おまけに、空くんが磨いてくれたからピカピカでつるつる。靴下でフローリングを滑って遊んでいたら、「何やってんですか」と空くんにため息をつかれてしまった。

 そんな空くんは、リビングの壁際、テレビの横にある大きな本棚を見ている。


「エマさんって、実は読書家なんですか?」


 付箋を空くんの手に貼る。


《全部おばあちゃんの本》


 祖母は読書家で博識で、それでいて頭のよさを感じさせないふわふわした雰囲気のかわいらしい人だった。プレッシャーの塊みたいなあの母を産んだ人だってことが、いまだに信じられない。

 家にいるのがしんどくて息苦しくて、ゴールデンウィークや夏休みなど、子どもの頃は休みの度にここに泊まりに来た。祖父は私が幼い頃に亡くなっていて、一人暮らしをしていた祖母がいつも温かく迎えてくれた。

 空くんの隣に立って、きっちりと並んだ背表紙を眺める。祖母は難しそうな海外文学が好きだった。


《遺品整理をしたんだけど、本はそのまま残してもらった》

「エマさんも読むんですか?」


 付箋を書いて、本棚の一角を指差す。


《私が死んだらこの本を読んでねって言われた。まだ読めてないけど》


 祖母が私に指定した本は、本棚の中でも一、二を争う分厚い単行本。手に取るだけでも大変そうで、いまだに棚から出せていない。


「おばあさんのためにも、本くらい読めばいいのに。どうせやることないんですよね?」


 失礼な、とは思えど一理ある。読書なら家でできるし、大掃除が終わったから時間もできそうだ。

 会社を辞めてから空くんが現れるまでの約二週間、何かをやったって記憶がない。スマホもあまり見たくなくて、朝晩にちょっと確認するくらい。あとはテレビを観ながらぼうっとして、ひたすらに眠ってばかりいた。家賃はかからないし、半年前までは紗和が光熱費を払ってくれていたので幸いにも貯金はそれなりにあり、無職になっても差し迫った危機感はなかった。おかげでずっとぼんやりしてたけど。

 隣の空くんの横顔をチラと盗み見る。

 少なくとも、この三日間の記憶は鮮明だ。




 その日の晩、空くんが作ってくれたのは、トロトロの牛すじ肉と野菜がごろごろ入ったビーフシチューだった。大掃除をがんばったご褒美ってことらしい。ビーフシチューなんていつぶりだろう。

 漂うデミグラスソースの香りに唾液が滲むのを感じつつ、スプーンに息を吹きかけてから口に運んで。

 大げさじゃないくらい感動した。

 ほろっと解れて舌の上ですぐに溶けてく牛すじ肉に、大きいけどスプーンが抵抗なく入っていく柔らかく煮込まれた野菜。中までしっかり染み込んだ上品な味が、ふわっと口の中に広がって余韻を残す。

 高級レストランみたいに本格的で、料理のことなどさっぱりわからない私にも深みのある味だってわかる。うちの古いガスコンロで作ったとか嘘みたい。

 まだ食べ途中だし行儀が悪いとは思いつつ、付箋に《おいしい》って書いて向かいの空くんに見せた。


「……食べることに集中してくださいよ」


 なんて言いながらも、空くんは付箋を自分の手元に引き寄せる。クールな表情ではあるものの、その口元がわずかに緩んでいるのを確認し、すかさず付箋を追加する。


《すっごくおいしい!》


 空くんはまた付箋を回収し、ふんっと鼻を鳴らした。今度はあからさまに嬉しそう。

 クールだし手厳しいし、あまり笑ったりしない空くんだけど。作ったお料理に対して《おいしい》って伝えたときだけは、わかりやすいくらいに表情筋が緩む。ふんわり笑ってくれることすらある。

 普段が鬼のようなだけに、空くんの笑顔は貴重だし、年下らしいかわいげすら感じられる。だから、この数日は食事の度に《おいしい》攻撃をしかけている。お世辞じゃなくて、本当においしいんだけども。

 お代わりもして本格的なビーフシチューを食べ終え、今晩の夕食もおしまい。家の中もすっきりしたし、お腹は膨れて気分はとてもいい。

 私の分まで緑茶を淹れてくれた空くんが、けどそんな気分に水を差した。


「エマさん、この三日間、一歩も家から出てませんよね」


 その台詞でただ事実を述べたいのか、それとも私を非難したいのか、クールな表情からはわからなかった。


《私の勝手でしょ》


 でも単純な私はすぐにムッとしてしまい、そして空くんは表情を変えずに呟く。


「不健康」


 そんなの、自分でもわかってるし。


「エマさん、掃除でもすぐへばってたし。もう少し体力つけた方がいいんじゃないですか?」


 それが簡単にできたら苦労しない。

 八百屋さんでの気詰まりな空気を、お店の人から向けられた不審そうな目を思い出して、息が詰まったようになった。

 声が出なくて、普通に買いものをすることすらままならない。

 空くんみたいに家事もできない。なんにもできない。

 家から出るだけで、気まずくて気まずくてしょうがないのに。


《空くんにはわかんないよ》

「わかるわかんないの問題じゃなくて――」


 さっきまでいい気分だったのに、どうしようもなく腹が立つ。

 普通にしゃべれてなんでもできる空くんに、知った顔で説教されたくない。

 なんにも知らないくせに。

 ダイニングテーブルに身を乗り出して、走り書きするように書いた付箋を勢いよく空くんの額に貼りつけた。

 突然のことに避けることもできず、空くんはそのまま椅子ごと引っくり返って私の視界から消える。


「痛っ……ったく、何すんですか!」


 返事なんてしたくないし、したくてもどうせできないし。

 せっかく淹れてくれたお茶を少しもったいなく思ったけど、苛立ちが勝ってそのまま和室に引っ込んだ。ピシャリと音を立てて襖を閉める。

 付箋には、《嫌なら出てけば?》って書いた。

 そうだそのとおり、家主は私で、空くんは居候でしかない。面倒を見ろなんて、こっちから頼んだわけでもない。

 文句を言われる筋合いはないんだから!

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