1.朝のふわふわ蒸しパン(4)


          ◇◆◇


「――マさん、エマさん」


 身体を軽く揺すられて、意識を取り戻すと同時に目眩と吐き気に顔をしかめた。


「朝ですよ」


 その言葉に、重たい目蓋を開くやいなや。

 視界に飛び込んできたのは目鼻立ちの整ったクールな顔で、たちまち眠気が吹っ飛んだ。

 空くんはソファのすぐ横に片膝をつき、私の顔を覗き込んでいる。

 近い……。

 おかげで、空くんの瞳は黒ではなく濃い茶色だとわかった。


「笑えるくらいにヒドい顔してますけど、大丈夫ですか?」


 手を伸ばせば届くところに付箋とボールペンがあることに気づき、寝起きで力の入らない手でミミズのような文字を書きつけた。


《キモチワルイ》


 二日酔いなんて、いつぶりだろう。


「初対面の人間を家に泊めて、挙げ句の果てに酔い潰れるとか、どれだけ緩いんですか」


 おっしゃるとおり。とはいえ、強引にうちに泊まることを決め、ビールを飲んで楽しそうにクズとの思い出の品を率先して切り刻んだの、空くんだと思うけどね?

 呆れ顔の空くんが立ち上がって、私もゆっくりと身体を起こした。幸いにも、胃は重たいけど今すぐ吐きたいってほどじゃない。

 庭に面した掃き出し窓のカーテンの隙間から、朝日が差し込んで雑然とした室内を浮かび上がらせていた。昨日飲み散らかしたビールの缶はすでにリビングからなくなってて、空くんが片づけてくれたらしい。ガラステーブルには表面を埋め尽くすように付箋が貼られていて、私の文字で溢れてる。

 ソファから立ち上がろうとしたら、身体の上からブランケットが落ちた。空くんがどこかから発掘してかけてくれたらしい。

 ありがとうと伝えたくて、手を合わせて深々頭を下げた。


「吐きそうですか?」


 思いがけず心配そうに訊かれ、首を横にふる。


「それなら、朝ご飯、食べられそうですか?」


 その言葉に気がついた。キッチンの方から、ふんわりと甘い匂いが漂っている。

 私が頷くと、空くんは小さく嘆息した。


「じゃあ、ぼけっとしてないで、さっさと顔洗ってきてください」




 冷たい水で顔を洗って、昨日の格好よりは少しはマシなジーパンとシャツに着替え、髪を整えてよしとした。初対面の段階でスッピンだったので、化粧は割愛。

 そっとダイニングに顔を出す。菓子箱やダイレクトメールなどでとっ散らかっていたはずのダイニングテーブルの上はいつの間にか綺麗になっていて、そこには見慣れたARABIAのマグカップが四つ置かれていた。

 席に着いた空くんがマグカップ二つを自分の方に寄せたので、私の分のマグカップは残りの二つということらしい。空くんの向かいの席に座り、そっとマグカップを覗いた。

 淹れられたばかりの緑茶と、ふんわりしたパン――マグカップの蒸しパン。


「戸棚に、未開封のホットケーキミックスがあったんで使いました。電子レンジで簡単に作ったものですけど」


 ホットケーキミックスと蒸しパンが頭の中ですぐには結びつかなくて、まじまじとカップ見つめたまま目を瞬いてしまう。


「……食べたくなかったら、食べなくてもいいですよ」


 私がぼんやりしているから、気分を害したのかもしれない。ぶんぶんと首を横にふって、用意されていたフォークを手に取った。

 薄黄色の、ふんわり膨らんだ蒸しパンの表面にフォークを刺して、そっとすくう。思っていたよりもっちりしていて、食べ応えがありそう。口の中に入れると、すぐに優しい甘みが広がっていく。

 ふいに鼻腔の奥がつんとして、それをごまかすように私は席を立ち、リビングに置きっ放しにしていた付箋とボールペンを手にしてダイニングに駆け戻った。


《おいしい!》


 大きな文字で書いて、空くんに付箋を突きつける。

 けど、空くんはなんだかポカンと付箋を見てて、私の言葉なんて通じてないみたい。さっきの付箋に、三文字つけ加えてもう一度見せた。


《すごくおいしい!》


 ――次の瞬間だった。

 感情のわかりにくいそのクールな顔が、くしゃりと笑うように緩む。


「なら、よかったです」


 空くん、こんな風に笑うんだ。

 笑顔を見せてくれたことがなんだかすごく嬉しくて、 《おいしい!》って書いた付箋を三枚も作って空くんの前にぺたぺたと貼っていく。

 空くんは表情を緩めたままくすくす笑い、「わかりましたから」と《おいしい!》の付箋をさらに増やそうとする私を止めた。


「冷めないうちに食べてください」


 こうして再び席に着くと、そのあとは黙々と蒸しパンをフォークですくって口に運んだ。空くんはそんな私を穏やかな目で見つめ、やがて自分の蒸しパンをゆっくりと食べ始める。声が出ないからもちろん会話はないけど、気詰まりや居心地の悪さはなかった。

 ……朝ご飯をこんな風に誰かと食べるなんて、いつぶりだろう。

 紗和がいた頃も、フリーランスの紗和と会社員の私じゃ生活サイクルが違ったし、朝ご飯を一緒に食べることはほとんどなかった。

 そして、リビングの方にチラと視線をやる。

 たくさんの付箋。

 筆談ではあったけど、昨日みたいに誰かと話をすることも、もうずっとしてなかった。

 ふわふわの蒸しパンで、身体の内側から温かくなっていく。

 声も出なくなって、友だちもいなくなって、一人ぼっちで。

 今の私には、本当になんにもない。

 フォークを持つ手が震えて、とうとうテーブルに置いた。甘かったはずの口の中がしょっぱくなって、嗚咽が漏れる。

 昨日の夜は、酔っ払ってたからって涙の言い訳もできたのに。朝ご飯のまっ最中じゃん……。

 空くんがティッシュの箱を取ってくれて、ありがたく一枚引き抜いて目元に当てた。


「泣くほどの味じゃないと思うんですけど?」


 冗談めかした口調の空くんに、震える手で付箋にもう一度 《おいしい》って書いて渡す。字は波打っていてよれよれだった。


「おいしかったのはよかったですけど……蒸しパンでそんなに泣きませんよね、普通」


 素直に首肯した。

 自分が普通じゃないってことくらい、とうにわかってる。

 声も出ない、感情のコントロールもうまくできない、引きこもることしかできない。

 わかってるけど、だからってどうしたらいい?

 ぐずぐず泣いて、洟をかんで、緑茶をひと口飲んで深呼吸する。顔を上げると、空くんの顔はもうクールなものに戻っていた。


「俺が言うまでもないと思うんですけど。エマさん、ここに一人でいない方がいいんじゃないですか? クズもまた来るかもしれないし」


 自明すぎて、訊かれるまでもない。


「可能なら、実家に帰るとか?」


 それにはすぐに答えられた。


《ムリ》


 実家はあるし、両親は健在だ。

 けど、その選択肢は存在しない。

 家のことについて、幸いにもそれ以上の質問はなかった。空くん自身も親と折り合いが悪かったって言ってたし、通ずる部分があるのかもしれない。

 空くんは口元に手を当て、頬杖をついて考え込んでしまった。

 友人の弟とはいえ、知り合ってたった一日の赤の他人。本当に申し訳ない――


「ずっと思ってたんですけど」


 空くんはようやく口を開いた。


「この家、物だらけで整理整頓されてないし、掃除もちゃんとできてませんよね?」


 突然の問いに首を傾げていたら、空くんは畳みかけてきた。


「というか、正直な感想を言うと、すっごく汚いです。ナイです」


 ……ごもっともではあるんだけど。

 第三者に「ナイ」とまで断じられてしまうと、さすがにちょっとヘコむ。


「あと、キッチンがぐちゃぐちゃなうえに、ゴミ箱見たらコンビニ弁当の容器だらけだし、冷蔵庫は空っぽでろくな食材はないし……。普段、何食べてるんですか? 食事もだいぶ適当ですよね?」


 朝食はほとんど抜いていて、昼と夜はコンビニ弁当か冷凍食品でほぼ済ませている。適当との言葉に、反論できる材料は何もない。

 ただでさえ弱っていたメンタルに、怒濤のダメ出しで私はとうとうダイニングテーブルに突っ伏した。


「エマさん、会社を辞めたって言ってましたよね? 仕事もないくせに最低限の家事もできてない、ってことですか?」


 全部全部そのとおりで、ヒットポイントはもうゼロ。

 私は仕事もなく家事もできず、メンタル的にも追い詰められている。これはもう死ねと言われているも同然では……。


「ところで俺、実は日本で住むところ、決まってないんですよ」


 その唐突な言葉に顔を上げた。

 目が合うと、空くんは唇に薄い笑みを浮かべて、さらに言葉を続ける。


「で、俺なら毎食の準備とエマさんの生活改善、できると思うんですよね」


 空くんが何を言いたいのか、よくわからない。

 確かに、手早く朝食を用意できる空くんなら、私より家事ができそうではある、けど……。

 黙っていられなくて、付箋にボールペンを走らせた。


《つまり?》

「俺がここに住むの、どうですか?」


 ……住むの?

 さっきまで絶望でいっぱいだった頭の中は、たちまち疑問符で埋め尽くされてく。

 住むの? ここに? 空くんが? なんで?

 何か書かなきゃ、訊かなきゃって思うのに、考えがまとまらなくて言葉にならず、ボールペンを持つ手は動かない。

 そんな風に黙っていたら、多分、空くんはそれを是と受け取った。

《おいしい!》って伝えたときの、ふんわり柔らかい笑顔じゃない。澄ました顔に、悪事を企むような悪い笑みが浮かぶ。


「じゃ、そういうことにしましょう。エマさん、よかったですね!」


 よくない。多分これ、絶対よくない……!


「今日から、どうぞよろしくお願いします」



 ――声が出なくなって、会社を辞めて二週間。

 こうして二人暮らしが始まった。

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