1.朝のふわふわ蒸しパン(3)


「なんですか?」


 興味津々といった様子で身を乗り出す空くんはなんだか楽しげで、顔には出てないけどちょっと酔ってるのかもしれない。


《クズとの思い出の品々》


 ファイルの中身をパラパラと見ると、空くんは「もしかして」と口を開いた。


「これ、デートの記録?」


 ファイルには、二人で行ったレストランのショップカードや、美術館でもらったチケットやパンフレットなどが日付順に収納されている。最後の日付は半年前、全国チェーンでお手頃価格の居酒屋のショップカード。


《昔はちゃんと好きだったのに》


 派遣社員として働き始めて二年が経った頃、人事異動で私の課に配属された課長が九條さんだった。

 見た目は私の好みにドストライク、おまけに人目を惹く美人でも特別かわいいわけでもない私にも優しく声をかけてくれ、日々のクレーマーへの対応で疲れた心には癒し効果抜群、好きになるのはあっという間だった。多分、そんな私の気持ちに気づいていたんだと思う。食事に誘われたのをきっかけに、二人で会うようになった。

 私はけっしてマメな性格じゃない。それでも、二人の思い出はどれ一つなくしたくなくて、中学生みたいにファイリングしてたのに。


《浮気された》

「それはまた……」

《気づいただけでも三回》


 初めて浮気されたときは泣いて怒った。二度三度となると怒る気力もなくなった。

 そして個人的な連絡が途絶えて半年、声が出なくなったのに心配すらされなくて、この人は私のことを恋人ともなんとも思ってなかったんだって、ようやく諦めがついたのに。


「なんで今日、ここまで来たんですかね」

《女にふられたとか》


 他人を大事にできないくせに、寂しがり屋で一人でいられないクズ。三年近くふり回されたので、それくらいは理解できてる。

 忌々しさをぶつける先もなく、呷るように缶ビールを半分空けた。さらに身体が熱を帯びてきて、燻っていた苛立ちの正体が見えてくる。

 そんなクズがうちまで来た。家に上げるつもりはまったくなかったけど、私のことを忘れていなかった、必要としてくれたって事実に、心の片すみで喜んでしまった。

 そんな自分が何より腹立たしいし、情けなくてしょうがない。


「このストールは?」

《二年前の誕生日プレゼント》


 九條さんにもらった唯一のプレゼント。去年の誕生日は完全に忘れられていて、私の方にもそのことを言い出す気力すらなかった。


《あげる》

「要りませんよ」

《どうしたらいいと思う?》


 手放したいのに、捨てたいのに、いざとなるとできなくて、ずっと手元に置いたまま。

 細かな花柄のアイボリーのストールを手にし、空くんは観察するように眺めてから提案してきた。


「燃やしますか」


 ギョッとした私にはおかまいなし、空くんは立ち上がると、ストールを手にしたままキッチンへと歩いていく。

 慌ててあとを追いかけると、まさにガスコンロの火を点けようとしているところ。飛びつくようにその手を止めた。


「なんで止めるんですか」


 そりゃ止めますよ。


「そんなクズでクソ野郎にもらったもの、燃やして塵にしてやりましょうよ」


 楽しげにも聞こえる口調の反面、その目は静かに怒りを湛えている。今日初めて会った空くんが、私のことでなんでこんなに怒ってくれるのかわからない。

 けど、こんな風に怒ってくれる人がいるって事実に、救われたような気持ちにもなった。

 このままだと本当に火を点けかねない空くんをリビングまで引っぱり戻し、ひとまず新しい缶ビールを与えて再び座らせる。


《燃やすのはやめましょう》


 私がガラステーブルに貼った付箋を見て、空くんは面白くなさそうに鼻を鳴らす。


「要らないなら、俺が燃やそうが関係ないじゃないですか」

《火事は困ります》


 空くんはわかりやすいくらいに不機嫌な顔で新しい缶ビールのプルタブを引っぱった。それから少し考えて、こんな提案をしてくる。


「じゃあ、ハサミありませんか? できれば二本」


 そうしてハサミを二本渡すと、空くんは私に一本戻してきた。


「燃やすのがダメなら、切り刻みましょう」


 えぇぇぇ……。

 空くんはストールではなく思い出ファイルの方に手を伸ばし、取り出した安居酒屋のショップカードを私に握らせた。私がカードとハサミを手に固まっていると隣にやって来て、ハサミを持つ私の手の上に自分の手を添えてくる。

 空くんの手は体温が高かった。

 触れられた手の甲から私の血まで熱くなり、じわりと全身に巡ってく。


「クズでクソ野郎なんですよね?」


 クソ野郎っていうのは空くんが言い出したことだけど、異論はないので頷いた。


「――だったら、さようなら、です」


 囁かれたその言葉は吐息となって私の頬を撫で、気がつけば、私はショップカードのまん中にハサミを入れていた。

 カードはバラバラになって、音もなく足元に落ちる。空くんはそれを手を伸ばして拾い、私の眼前に突きつけた。


「ほら、ただの紙切れじゃないですか」


 ――こうして、最初の一枚を越えたあとは早かった。

 ファイルから出しては切って、出しては切って、見る間に紙くずの山ができていく。

 空くんは私が切った紙をさらに細かく切り刻み、キッチンのどこかから見つけてきたスーパーの袋に詰めていった。


「へぇ、この映画、行ったんですか」

《クズは途中で帰った》


 付き合い始めて数ヶ月。悩みに悩んで話題のミステリー映画を選び、私がチケットを予約した。久しぶりのデートで、ここぞとばかりに気合いを入れていたのだ。

 でも結局、九條さんは「用ができた」って犯人がわかる前に映画館を出ていった。最初の浮気相手だった女の子に呼び出されたんだと思う。

 チケットをジョッキン、さようなら。


「このフレンチレストラン、予約が難しいので有名な店ですよね」

《仲直りのお店》


 同僚がやり残した仕事を代わりに引き受けて残業した、ある日の帰り道。私より若くてかわいい女の子と腕を組んで歩いているところに、たまたま鉢合わせた。一度目の浮気が発覚した瞬間である。

 怒りのあまり泣きながら問い詰めたら女の子は逃げていき、「気の迷いだから」とかなんとか慰められて、後日、連れてこられたのがこのお店。

 なかなか予約が取れないお店だけどエマのためにがんばった、なんて言葉にころっとほだされた。九條さんと自分が釣り合っていないことはわかってたし、たった一度の浮気だし、ちゃんと謝ってもくれたし、なんて色々許してしまった。


「男はクズですけど、それを許すエマさんもわりとどうしようもないですね」


 そんなことわかってるし!

 ショップカードをジョッキン、さようなら。

 ……そう、あのとき、さようならをしちゃえばよかったのだ。

 でも、当時私は二十九歳。この恋を逃したらもう先なんてないって思いも強くて、そりゃもう必死だった。紗和にも何度も「別れろ」って忠告されたけど聞く耳持たずで、最後には呆れられて何も言われなくなった。本当に悪いことをした。

 紗和と喧嘩してまで続けた付き合いだったのに、数ヶ月も経つとまたメッセの返事は遅くなり、会う回数も減っていった。たまに会えたと思えば、ほかの女の子から届いた如実に関係を匂わせるメッセを見てしまって、「だから?」と開き直られて絶句した。二度目の浮気が発覚。


「それで別れたんですか?」


 首を横にふるなり、空くんに鼻で笑われる。


「救いようがないですね。主にエマさんが」


 だって、それでも少し経つと、九條さんはまた私に連絡してくるのだ。

 社交的でも美人でもない。おまけに社会人になってから、男性とまともに付き合った経験なんてほとんどない。そんな私を必要とする人なんてきっともういない、浮気してもこの人は必ず私のところに戻ってくる、この人も私を切れないんだって、信じて疑わなかったのだ。

 私なんて、最初から切られっ放しだったのに。

 困っていても助けてくれない。都合のいいときしか連絡してこない。

 説教して人生苦労話を聞かせてくるクレーマーと大差ない。時間があるときに、気まぐれにいいように使われていただけ。

 だから今度こそ連絡が途絶えて、さすがに半年も経ったし自然消滅したんだって、自分で区切りをつけたつもりだったのに。

 また私のところに来た。


「ちゃんと『別れる』って伝えないからいけないんですよ」


 空くんが容赦なく切り刻み、そのとおりすぎて何も言えない私もジョキジョキ切って、切り刻む。


「エマさん、男見る目なさすぎですね」

「ダメ人間すぎてちょっと引きました」

「これで少しは懲りて学んでください」


 空くんにディスられながらハサミを動かし続けて一時間も経った頃、ファイルは空っぽになり、紙くずだらけのゴミ袋が一つできた。

 大事に大事にしまっていた思い出は、刻んでしまえばたったのこれっぽっち。

 空しくて、切なくて、でもすごくすっきりして、私はようやく二本目の缶ビールを空けた。空くんはというと、四本目の缶ビールに口をつけながらゴミ袋を見て小さく笑う。


「楽しかったですね」


 今、私の中を渦巻いている色んな感情をひと言で表すのに、これほど相応しい言葉はないように思えた。


《楽しかった!!》


 付箋いっぱいに大きな文字で書いて、ガラステーブルの中央にびたんと貼りつける。ガラステーブルの上は、すっかり私の書いた付箋だらけになっていた。

 誰かとこんな風にたくさん会話したの、いつぶりだろう。

 足元に、アイボリーのストールが丸まって落ちていた。拾い上げたそれに、思いきってハサミを入れようとした――けど。


「……無理して切らなくても、いいんじゃないですか?」


 ハサミを持つ手を止められた。

 どうして、と思って顔を上げたら、重力に負けた涙の粒が、私の目からポロポロとこぼれ落ちる。


 ――これをもらったとき、涙が出るくらい嬉しかったのだ。


 何度も抱きしめて、文字どおりくるくる回って紗和にも自慢した。大切すぎて数えるほどにしか使えなかった。ここに彼の気持ちが全部詰まっているようで、部屋のすみに飾って安心の材料にしてた。

 なんの意味もなかったのに。


「切らなくたって、大丈夫ですよ」


 切り刻めって言ったり、切らなくてもいいって言ったり……。

 空くんが「はい」とゴミ袋の口を私に向ける。ハサミを置いて、ストールを丸めて押し込んだ。

 今度こそ、さようなら。

 袋の口をキュッと結んで空気を抜くと、空くんはすっと立ち上がった。


「じゃ、ゴミ袋、玄関に置いておきます。エマさんに任せてるとゴミ屋敷の養分になりそうだし」


 余計なひと言をつけ加えるのを忘れず、まるで自分の家のような慣れた足取りでリビングを出ていく空くんの背中を見送って、脱力した私はソファに身体を横たえた。

 涙が止まらなくて、染みになると思いながらも手近にあったクッションに顔を埋める。達成感とふいに訪れた一抹の寂しさが、アルコールの熱で溶け合って境界をなくしてく。

 そのまま横になってじっとしていたら、空くんが戻ってきた気配があった。三十二歳のいい大人が、人前で、それも初対面の年下の男性の前でぐずぐずと泣いてしまったという事実に、このまま穴を掘って埋まっちゃいたい。

 私が空くんの立場だったら困るだろうなと思いながらも、そのまま動けずにいたら。

 頭にそっと、何かが触れた。

 温かいそれは、幼い子どもにするように私の頭を撫でる。

 空くんの手。


「エマさん、思っていた以上にダメな人ですね」


 思っていた以上?

 なんのことだろうという疑問は、けど頭に触れる手の温もりですぐにどうでもよくなってくる。温かくて、気持ちよくて、涙でぼってりとした目蓋は自然と下がって意識も遠退いた。




 ――その晩、巨大なキャンプファイヤーの周りで踊る夢を見た。

 大きなステップを踏みながら燃え盛る炎の中にストールを投げ込んで、やってやったと大きな歓声を上げた。

 達成感。楽しくて楽しくて仕方なかった、はずなのに。

 火が消えて、辺りを見回して気がついた。

 ここには私以外誰一人いなくて、残っているのは黒く焦げた燃えかすだけ。

 私は一人ぼっちで、誰かを呼ぶ声すら上げられない。

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