1.朝のふわふわ蒸しパン(2)
リビングにある、ダークグリーンの三人がけの大きなソファ。そこに紗和の弟を座らせ、ごちゃごちゃした戸棚の中からなんとか救急箱を発掘する。
「姉さんの部屋って、どこだったんですか?」
声をかけられ弟くんの方を見ると、物珍しそうに部屋の中を観察していた。あまり人様にお見せできる状態じゃないので目を瞑っててほしいくらいだけど、ここに通したのは私だし、そんなお願いをしようにも声は出ない。
かつては祖父母が暮らしていた築五十年の木造古民家で、私は現在一人暮らしをしている。一階のリビングダイニング、ならびにリビングの隣、私が寝室として使っている和室は「惨状」という単語が相応しい状態だ。
生ゴミだけは溜めないようにしているけど、溢れた物で壁際には随所に山ができている。もはや自分でも何が必要で何が不要か、まったく区別できてない。
私は天井を指差して質問に答えた。
「二階?」
首肯する。
「今は同居人は?」
今度は首を横にふる。
「じゃ、一人暮らしなんですか。物がなければそれなりに広そうなのに、残念ですね」
……あれ、今、もしかしてディスられた?
私は発掘した救急箱から消毒液と絆創膏を取り出し、ティッシュペーパーと一緒に差し出した。
「ありがとうございます。あ、自分でやれますから、おかまいなく」
消毒液をかまえた私を手で制し、弟くんはクールな顔で手の甲の傷を自分で消毒し始める。
助けてくれたし紗和の弟だしとは思えど、マイペースというかなんというか……。
とりあえずお茶でも淹れようとダイニングの方に移動する。が、床に放ってあった古雑誌に足を引っかけてしまい、転びかけて慌てて壁に手をついた。
「大丈夫ですか?」
すかさず弟くんの声が飛んできて、恥ずかしさに頬が熱くなる。大丈夫と言うつもりで頷いて返し、そそくさとキッチンへ行って食器棚から急須を取り出した。
こんなことなら、片づけくらいちゃんとしておけばよかった……。
食器棚の中も混沌としていて湯呑みを見つけられず、仕方ないのでマグカップに緑茶を淹れてリビングまで運んだ。お気に入りの北欧の食器ブランド、ARABIAのマグカップ。普段使いしている葡萄や林檎が描かれたこの柄は、定番のシリーズだ。
「あ、ありがとうございます」
手の甲に大きな絆創膏を貼り終えた弟くんは、マグカップを受け取ると姿勢を正して頭を下げた。若い男の子と二人きりだと改めて意識して、なんだか急に落ち着かなくなってくる。
紗和の弟とはいえ、見ず知らずの男性を家に上げるのは非常識だったかも……。
けど、我が身をふり返って余計な心配は一瞬で消し飛んだ。ゴミ屋敷寸前の惨状に加え、くたびれたセーターにゴムウエストのパンツ、長い髪は適当にゴムで結っただけ、おまけにスッピンと、最大限に気の緩みまくった格好だ。そのうえ声も出ない。弟くんの側に、私にときめくような要素はまったくなかった。
それでもソファに座ってマグカップを手にする弟くんをつい意識してしまい、距離を取るようにガラステーブルを挟んだ向かい、カーペットの上に腰を下ろす。まだ春には遠く、古民家の中は暖房を入れていても足元が冷えた。カーペットの上には目を凝らすと細かなゴミや髪の毛が見え、考えてみるも、何日前に掃除機をかけたのか思い出せない。
お茶を少しすすってから、弟くんは「皆月
「俺、姉だけが頼りでここに来たんです」
空くんは感情的になることなく、訥々とした口調でここに来た事情を説明し始める。
両親と折り合いが悪く、大学卒業後すぐに海外に出たこと。
だけど失業してしまい、あえなく帰国することになったこと。
唯一連絡を取り合っていた姉を頼って、ここまで来たこと。
空くんの話を聞きながら、紗和の家庭の事情を思い出す。紗和いわく、紗和の母親は「人懐こく」て「節操なし」。離婚と再婚をくり返し、妹が生まれたり相手の連れ子だという兄弟が増えたりと、それはもう家族構成が変化しまくる大変な学生時代だったそう。
空くんは、その増えた兄弟の一人、ということなんだろう。
私は玄関に置きっ放しだった付箋とボールペンを取ってきて、リビングに戻ると質問を書いて空くんに見せた。
《サワに連絡は?》
「メールを送っても返事がなくて」
もしかしたら、飛行機で移動中とか、ネットの繋がらないところにいるのかも。
元同居人でもある紗和は、もともとは新卒で入社した会社の同期だ。その会社が入社五年目に倒産したあとは、私は派遣社員として、紗和はフリーのデザイナーとして働き始め、同時に私の祖父母が暮らしていたこの家でシェアハウスを始めた。実家を出て紗和と暮らしたこの数年間は、本当に楽しかった。
そして昨年、紗和は仕事で出会ったカメラマンの男性と結婚し、現在は世界一周の新婚旅行中。声が出なくなったけどのんびりやっているので心配しないように、とは伝えてある。私のことをまともに心配してくれるのは紗和くらいだ。
「どうしようかな……」
空くんは考え込むように黙ってから、絆創膏を貼った自分の手の甲を見ると。
急に顔を俯かせた。
「……気分、悪くなってきたかも」
え、と腰を浮かせる。
お茶が腐ってたってことはないと思うんだけど……。
どうしたらいいのかわからずにいると、空くんはさもだるそうに額に手を当てた。
「俺、実は血を見るの、苦手なんです」
そうなの? 君、さっき自分で手の傷、消毒してなかった?
「すぐ貧血起こしちゃうんですよね……」
そんな風には見えなかったけど、現に空くんは俯いたまま動かなくなっちゃったし。本当に気分が悪いなら、横になってもらった方がいい。
私は付箋を差し出した。
《気分がよくなるまで、うちで休んでください》
と、それを目にするやいなや。
空くんはパッと顔を上げ、「それなら」と口を開く。
「お言葉に甘えて、気分がよくなるまで泊めてもらいます」
……は?
何か言おうにも声は出ない。私が口をパクパクとさせていると、空くんは唇に薄い笑みを浮かべた。
「朝になれば気分もよくなると思うんですよね。今日の宿も探せてなかったし、本当に助かりました!」
そしてソファのそば、床の上に置いてあったボストンバッグを手にして立ち上がる。
「姉が使っていた二階の部屋、お借りします」
もはや強引な空くんを断る気力もなし。紗和の弟だしと諦めて、二階の空き部屋に空くんを通した。
フローリングの六畳間。紗和が使っていた小さな机と椅子は残っているけど、ほかには何もないガランとした空間が広がる。空気を入れ換えようと窓を開け、押し入れに客用の布団があることを指し示して教えた。
「ありがとうございます」
恐縮するでもなく、さらりと礼を口にする空くんは肝が据わっているというかなんというか。さすが物怖じしない紗和の弟。
もはや変に警戒してもしょうがない。困っていたところを助けてくれた恩人でもあるし、最低限のおもてなしはしよう。
ボストンバッグを床に下ろし、物珍しげに部屋の中を見ている空くんに付箋を書いて渡す。
《タオル貸します。お風呂も使ってください。夕食は?》
「ご飯は食べました。お風呂は、エマさんのあとでいいですよ」
了解、のつもりで小さく敬礼して、私は空くんを残して一階に下りた。
エマさん、なんて名前で呼ばれてしまった。
私の名前は
この家は少しの振動ですぐに軋む。二階の空くんの気配が一階でもわかって、半年ぶりに家の中に自分以外の誰かがいるという状況に、こそばゆさのようなものを感じた。
お風呂、久しぶりに沸かそうかな。あ、でもそれだと掃除しないと……。
早足で風呂場へ向かったものの、タイルばりの風呂場は極寒で掃除は早々に諦めた。そそくさとシャワーを浴び、いつものくたびれた冬用パジャマじゃなくて明るいグレーのジャージに着替える。毛玉だらけのパジャマを年下男子に見せたくないと思うくらいの乙女心は、私にもまだ残ってる。
新しいバスタオルとフェイスタオルを手に階段を上ると、最上段で空くんが待っていた。
「足音ですぐにわかりますね」
タオルを差し出すと、「ありがとうございます」と礼を言われた。
「じゃあ、シャワーお借りします」
すると、空くんがなぜかこちらに手を伸ばしてきた。
その指の長い手が思いがけず下ろしていた私の髪に触れてきて、思わずビクついて一段下がる。
「髪、ちゃんと乾かさないと風邪引きますよ」
手はすぐに引っ込んだ。
コクコク頷き、そそくさと階段を下りてリビングに戻る。
……髪なんて、いつも気持ち程度にドライヤーをかけたら、あとは自然乾燥だけど。
悔しいような恥ずかしいような、身悶えしてしまいそうな気持ちを押し殺しつつ、リビングのソファで無心でドライヤーで髪を乾かした。
そうして長い髪がすっかり乾いてさらさらになった頃、リビングに空くんが顔を出した。
「タオル、ありがとうございました」
空くんはクールな見た目によく似合う、濃い紫のジャージ姿。使っていたドライヤーを空くんに譲り、私は使用済みのタオルを受け取って洗面所の洗濯機に放った。
リビングに戻ると、ドライヤーの風に吹かれて空くんの短い髪が舞っていた。部屋の湿度が上がって、使い慣れたシャンプーの匂いが濃い。久しぶりの他人の気配のせいか、またしてもドキリとしてしまってため息をつく。
意識してもしょうがないのに。
気を紛らわせるべく、水でも出そうとキッチンの冷蔵庫を開けて気がついた。
冷たい飲みもの、牛乳とビールしかない。
私は普段からお酒を飲む方ではなく、ビールはすべて紗和が残していったものだ。賞味期限はまだ大丈夫そうだけど、数えてみたら十本もある。紗和、お酒強かったもんなぁ。
今年の頭、年が明けてすぐ、紗和の仕事関係のパーティに連れていかれたことを思い出す。結婚してここを出ていった紗和が、たまには外で会おうと誘ってくれたのだ。結局、私は場に馴染めず小さくなっていたんだけど、紗和は次々とグラスを空けてケロリとしていた。
リビングの方を見ると、空くんがドライヤーのスイッチを切ったところだった。綺麗にコードをまとめている空くんに近づき、訊いてみる。
《水道水、ビール、牛乳、お茶、どれがいい?》
空くんは迷わず右手の人さし指で「ビール」を指した。
「――じゃ、乾杯ってことで」
空くんに缶ビールを掲げられ、私も自分のそれを軽くぶつけた。
かくして、パジャマパーティならぬパジャマ飲み、いやジャージ飲みが始まった。
空くんに譲られてソファには私が座り、空くんはいつ掃除したかも定かじゃないカーペットの上で胡座をかく。
……紗和がうちにいた頃は、よくこんな風にお茶をしたり飲んだりしたっけ。
懐かしさで胸が詰まる。家で一人で飲むことはないし、久しぶりのビールは苦くて舌先がすぐに痺れた。頬が熱いので、もう顔が赤くなってるかも。
空くんは寛いだ様子で半分ほど缶を開けてから、思い出したように訊いてきた。
「家まで来てた自称・恋人、追い返しちゃってよかったんですか?」
自称、と表現してくれたところに空くんの気遣いを感じる。
私と空くんの間にあるガラステーブルに、書いた付箋を貼った。
《自称だし、クズなので》
「どういう関係?」
遠慮のない質問に、また付箋に書いて答える。私がもたもたと字を書くのを空くんは急かすこともなく、じっと待ってくれているのがありがたい。
《元カレ》
「じゃあ、ストーカー?」
《ずっと連絡してなかったし、家まで来たのは初めて》
そんな自分の字を見て、改めて腹立たしくなってきた。
私の相談に、まったく乗ってくれなかった九條さん。
それよりずっと前から、私には興味をなくして連絡すらしてこなかった九條さん。
なのに、なんで今さらうちまで来たの?
まだ中身がたくさん残っている缶ビールを、ガラステーブルの上にカンッと音を立てて置いた。ソファから立ち上がり、襖を開けて隣の和室に行き、とあるファイルと壁のフックにかけてあったストールを手にリビングに戻る。
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