1.朝のふわふわ蒸しパン

1.朝のふわふわ蒸しパン(1)

 人生というのは予測できないことの連続で、一年前、一ヶ月前、数日前には予想もしていなかったことが、当然のような顔をして突然訪れる。

 例えば、今目の前にいるこの男のように。


「いい加減、家に上げてくれないか?」


 じょうさんは必死に押し戻そうとする私の手首を掴み、玄関のドアを開けようと空いた右手を伸ばしている。ここに来るのなんて初めてのくせに、自分にはその権利があるはずだと、さも当然だという顔だ。


「ここでこんなことをしていても、しょうがないだろう?」


 年下の私を優しく宥める、耳の奥をざらりと舐めるような低い声。

 かつてはこの声で名前を呼ばれるのが好きだった。いや、声だけじゃない。もうすぐ四十路の年齢を感じさせない、無駄な肉のないすらりとした痩身、優しい笑みを浮かべる二重の目蓋、筋の通った鼻、形のいい薄い唇。九條さんの外見は、憎らしいまでにすべてが私の好みにドンピシャだった。

 そう、外見だけは。

 手首を掴む手から伝わってくる体温に、どうしようもなく脈が速くなっていく。背中で玄関のドアノブを隠すようにしていたけど、このままだとドアを開けられて中に押し込められるのも時間の問題かも。

 時刻は午後八時過ぎで、日はとうに沈んでいる。現在私が暮らしている古民家は東京都は葛飾区、柴又の住宅街の一角にある。観光スポットである帝釈天などもあり日中はそれなりに人通りがあるが、日が沈むと通りかかる人の姿はほとんどなく、誰かが助けてくれる望みは薄い。

 悲鳴でも上げられれば、誰かが気づいてくれる可能性はまだあるだろう。できることなら、「帰れ」「二度と顔を見せるな」と怒鳴りつけてやりたい。

 ……絶対に、今の私にはできないけど。



 遡ること、二週間。

 仕事中に突然、声が出なくなった。

 いつもだったら細かな振動があるはずの喉の奥を、吐く息がするりと通過して、そのまま口から外に出ていった。まさかの無音で最初は一人きょとんとしてしまった。

 喉に痛みなどはなかったものの、そういう風邪かもと内科や耳鼻咽喉科に通院し、色んな検査を受けたけどこれといった異常はなし。

そして、最終的に紹介されたのは心療内科。

 いかにも人のよさそうな初老の男性医師は、おっとりした口調でこう告げた。


 ――今の環境から、少し離れてみてはどうでしょう?


「今の環境」に、思い当たる節はなくもなかった。

 例えば、仕事。

 契約社員だった私の仕事は、エンタメ情報の配信のほかチケット販売も請け負う会社の、お客さま相談窓口の担当だ。センターと呼ぶほどの規模ではないものの、いわゆるコールセンター業務。

 お客さまは、基本的に何かトラブルがあったから電話をかけてくる。機嫌がいい人なんてまずいない。ネチネチと文句を言われたり、「責任者を出せ」などと怒鳴られたりするのは日常茶飯事。時間があるのか、説教をしたいだけのお客さまも少なくない。説教の挙げ句、「あんたももっといい仕事探したら? 私の若い頃はさぁ……」とアドバイスに見せかけた人生苦労話を延々と聞かされることもままあった。

 声が出なくなったのも、まさに受話器の向こうで怒鳴り散らす男性に、心を無にして「大変申し訳ございませんでした」と、謝ろうとしたときだった。

 例えば、同僚。

 コールセンター業務の担当は私を含めて二人で、うまく話を区切って電話を切れない私の一方、一つ年下の派遣社員の同僚は要領がよかった。定時になるとパッと席を立ち、残った報告書の作成などもあと回し、さっさとオフィスを出ていくタイプ。ただでさえお客さまの対応で消耗している中、彼女に注意する気力はなくて、私の残業時間は増えていった。

 誰かに相談したらと言われそうだけど、人付き合いが億劫で課の飲み会も断り続けていたら誘いすら来なくなった私なので、そんなことができる相手なんていなかった。

 例えば、友だち。

 ルームシェアもしていた唯一と言っても過言ではない仲のいい友人が、半年前に結婚して家を出ていった。心から祝福した一方、一人取り残され、三十歳を過ぎても何も変わらない自分にはちょっと絶望した。今さらだけど。

 例えば、恋人。

 ……でも、こちらは関係ないと思いたい。だらだら関係が続いていた恋人とは、半年前に自然消滅したところだったから。

 ――と、いくつか思い当たる原因はあれど。

 とにもかくにも、声が出なくなって色々と詰んだ。

 それが、二週間前の話。



「君が退職してから、どうしてるかずっと気になってたんだ」


 九條さんは私の右手首を掴み、切々と訴えかけるように、さも心配そうに話しかけてくる。

 せめて、正社員だったらよかったのにと思う。だったら、九條さんに期待することも、改めて失望することもなかったのに、と。

 新卒採用で入社した小さなIT企業は、入社五年目のある日突然、倒産した。そして転職活動をするもうまくいかず、派遣社員として採用されたのが先日退職したばかりの会社だった。派遣社員として三年働き、契約社員になれたのが二年前。がんばれば正社員になれるからと人事には言われていたものの、ついぞその機会はないままこんなことになってしまった。契約社員に休職制度はない。

 そこで、声が出なくても支障がない仕事のできる部署に配置転換してもえらないかと、今目の前にいる九條さんに相談したのだった。九條さんこそ、直属の上司であり、そして、自然消滅した元恋人でもある。

 九條さんと付き合い始めたのは三年前、そして多分、自然消滅したのが半年前。「多分」としているのは、個人的な連絡が途絶えたのがそれくらいの時期だから。

 私の中で自然消滅ということにしたものの、会社で毎日顔を合わせるだけでも心のどこかがすり減った。もう終わった人だって自分に言い聞かせ、何ヶ月もかかってようやく踏ん切りがついた頃だったのに。

 こんな状況になって、期待してしまったのだ。

 それなりに関係だってあった、こんなときくらい、よきに計らってくれるんじゃないかって。心配してくれるんじゃないかって。

 なのに。


 ――ただでさえ人が足りないのに、どう責任取るの?


 そう突き放されたので、翌日、私は会社を無断欠勤し、退職届を郵送したのだった。

 それからかれこれ二週間。メールの一本すら、一切送ってこなかったというのに。


「一人でこんな状態で、心細かったろう」


 どの口がこんなことを言えるんだろう。


「どうにかできないか、一緒に考えよう」


 その「一緒」をご遠慮願いたいんだってば……っ!

 いくら言葉を並べても私に響かないと悟ってか、九條さんはその形のいい眉をわずかに寄せた。私が頑なな態度だから下手したてに出ているものの、内心相当苛立っているのがわかる。自分の思いどおりにことが進まないと気が済まない性格なのだ。大人な見た目とは裏腹に、その本質はわがままな子どもと大差ない。

 玄関の前で押し問答が始まってから、もう五分近く経っていた。まだ三月も初旬、上着のない身体は徐々に冷えてくる。このままだと押し切られて上がり込まれて、なし崩し的にまた関係が始まりそう……。

 空いていた左手で九條さんの身体を押し返そうとしたら、とうとう左手首まで掴まれてしまった。もうどうしようもなくなって身体を固くして顔を伏せた、そのとき。


「何してるんですか?」


 九條さんの向こうに、誰か――二十代半ばくらいの若い男性が立っていた。

 小さく舌打ちすると、九條さんは私の手首を掴んだまま、さもなんでもなさそうな顔を作って背後の男性をふり返る。


「何もありませんよ。ご近所の方ですか? すみません、お見苦しいところをお見せしてしまって。ちょっとした痴話喧嘩です」

「痴話喧嘩……」


 男性の目が私に向いた。

 私がここぞとばかりに大きく首を横にふると、手首を掴む九條さんの手に力が込められ横目で睨まれた。手首をわずかに捻られ、痛みに小さく息を呑み顔を歪めた――直後。

 圧迫されていた手首がふいに解放された。

 男性が、私の手首を掴んでいた九條さんの手首を掴んでいた。九條さんはすぐにその手をパシリとふり払って一歩下がる。


「君はなんなんだ? 僕は彼女の恋人だ、邪魔しないでくれ」

「恋人だろうが、DVはよくないと思うんですが」

「DV……?」


 私はその言葉に強く同意するように、男性に向かって今度は首を縦にふる。

 九條さんの現在進行形の恋人だと認識されているのは不本意極まりなかったけど、この人をどうにかしてくれるならなんでもかまわない。

 男性は必死な様子の私に、小さく頷いて返してくれた。


「警察呼びます」


 とうとうスマホを取り出した男性に、九條さんは私から一歩離れた。


「……今日は彼女の機嫌も悪いようだし、僕は帰るよ」


 そうしてコートの裾を翻し、逃げるように足早に去っていく。

 ……助かった、っぽい。

 膝からかくんと力が抜けて、その場にへたり込んだ。掴まれた手首がじんじんと熱を持っていて、情けなくも目の奥が熱くなりかける。

 わけわかんない……。


「大丈夫ですか?」


 と、助けてくれた男性に心配そうに声をかけられてハッとした。

 YESと答えるように頷いてから、ドアノブに掴まって立ち上がる。それから一度家の中に引っ込んで、靴箱の上に置いておいたカードサイズの付箋の束とボールペンを手に再び外に出た。

 きょとんとしている男性に、付箋に手早く書いた文字を見せる。


《助けてくれてありがとう!》


 あの男は恋人じゃありませんとか、ほかにも色々伝えたいことはあったけど、筆談で伝えるには面倒すぎる。

 男性は、付箋の文字をじっと見つめてから話しかけてきた。


「あの……って、そうか、俺も筆談した方がいいのかな……」


 そうスマホを操作しようとしたので、また付箋に書いて見せる。


《耳は聞こえます》


 すると男性はスマホをコートのポケットにしまい、なぜか少し改まった顔になって、私を真正面から見据えた。


「俺のこと、覚えてませんか?」


 突然の質問に、男性をまじまじと見返した。

 私より二十センチくらい高そうな身長。染めたことのなさそうな黒髪はクセがなく、ミディアムヘアとでもいうんだろうか。表情の読めないクールな目元に、九條さんとは対照的な、自己主張の強くないさっぱりした面立ち。黒いチェスターコートに襟つきのシャツとパンツ、足元はスニーカーで全体的にカジュアルだ。

 派手さはないけど、カッコいい部類には入るだろう。残念ながら私の記憶にはないけど。そもそも、私は人の顔を覚えるのが得意じゃない。

 首を横にふると、「そうですか」と男性は少し落胆したように肩を落とした。

 もしかして、私に用があって来たのかな。助けてくれたのに申し訳ない……。

 と、続く言葉に目を丸くした。


「俺、みなづきの弟です」


 紗和の弟!?

 半年前まで一緒に暮らしていた同居人、かつ貴重で大事な友人こそ、その皆月紗和だった。

 慌てて付箋に文字を書く。


《サワは結婚して半年前にここから出ていきました》


 え、と男性は短く息を呑む。


「姉さん、いないんですか? どうしよう……」


 今さらながら気がついた。男性の足元には、大きなボストンバッグがある。

 私じゃなくて、紗和を訪ねてきたのか。

 考え込むように男性が口元に手を当てたのを見て気がついた。

 左手の甲に斜めに走る傷があって、血が滲んでる。

 これ、と言うように指差すと、男性は今傷に気づいたらしい。


「さっき引っ掻かれたのかな」


 九條さんに手を払われたときかもしれない。

 九條さんへの怒りが再燃し、でもすぐに萎んで申し訳なさでたまらなくなる。

 紗和の弟だし、私のせいで怪我もさせちゃったし……。

 男性のコートの腕を引っぱって、家に入るように手ぶりで示した。手の甲を指差すと、手当てをしたいと思っているのが通じたらしい。


「いいんですか?」


 OKと示すように、玄関のドアを開ける。

 私がスリッパを用意すると、男性は小さく深呼吸してから、一歩中に入った。


「じゃあ……おじゃまします」

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