六章・逃走(2)

「だ、大丈夫ですか?」

 脂汗を流す小波に肩を貸し、アサヒは不安気な顔で問いかける。小波はさっきの回避時、敵の突起の先端が腹部を掠めたせいで負傷してしまった。

「大、丈夫に……見える……?」

 見えない。だから心配なのだ。

 歩きながら器用に応急手当を施している門司は、笑顔を見せて二人を勇気付けた。

「死なない死なない。それほど深い傷じゃないし、出血も少ないからね。運の強い子だ」

 そう言ってから巻き付けた包帯の端を留めつつ、今度は苦笑した。

「ま、ビキニはもう着られないだろうがね」

「き、傷は勲章……ですよ」

 やはり笑みを返して強がり、脂汗の浮かんだ自分の額を指差す小波。アサヒが視線を移動させると、そこには古い傷痕があった。彼女にとっては文字通り名誉の証らしい。

「逞しい子やなあ」

 三人に護衛として付き添っているカトリーヌも笑う。そういう彼女には、どこを見ても傷一つ無い。小波よりベテランらしいが、それで無傷を保っているのだから相当な腕利きなのかもしれないなとアサヒは密かに感心した。

 前方ではマーカスと友之が大ぶりなナイフを使って森の中に道を切り開いている。後方のウォールと真司郎は馬を引きながら背後を警戒。朱璃はまだ回復しきれておらず、一人だけ馬上にいた。

 いつあの怪物が追い付いて来るかわからない。そんな不安を紛らわすためアサヒは話題を変える。

「今でも水着で泳ぐことなんてあるんですか? たしか海は危険だって」

「ま……街の中に、プールが、あるんだ……安全に、管理されてるから……」

「なるほど、じゃあ、またそこで泳げますね」

 励ましたくて、出来るだけ明るい調子で言ってみる。

 小波も苦痛で顔をしかめながら、どうにかこうにか頷いた。

「だね……水中での運動は良い訓練になるし、治ったら、リハビリがてら行かなきゃ」

「坊やも一緒に行ってみたらどうだい?」

 そんな門司の言葉に、けれどアサヒは首を横に振る。

「俺はやめときます」


 彼もまた、さっき傷を負ってしまった。

 そして知った。

 本当に自分は人間ではなかったのだと。


「皆を、怖がらせるだろうし……」

 自嘲気味に呟き、俯く。その目は小波以上に深く切り裂かれた自身の胸の傷を見つめていた。

 奇妙な感覚。痛みはあるけれど、それを自分のものとして認識できない。傷口は銀色の煙を吐き出し、急速に塞がりつつあった。流れ落ちた血も全て地面に触れる前に煙と化し、元の魔素に戻ってしまう。

 昨日、変異種の犬に噛まれた時からおかしいとは思っていた。あっという間に噛み傷が治ってしまったから。

 でも、それでも心のどこかでまだ、自分は本物の人間で、本当の“伊東 旭”なのだと信じようとしていた。もう一人の自分が、それは違うと否定し続けたとしても。

 けれど、こうなったら流石に認めるしかないだろう。


(俺は人間じゃなくて“災害バケモノ”なんだ)


 魔素とかいう物質によって記憶が再現されただけの存在。伊東 旭のまがい物。それが自分の正体。さっき見た怪物と同じだ。そんなものが気安く人と触れ合っていいはずが無い。

(逃げた方がいいかな……)

 この人達と一緒に行けば迷惑をかけてしまう。いや、おそらく、すでにそうなっている。

 一昨日、昨日、そして今日──彼等は立て続けに襲撃を受けた。今の世界でも、こんなことは滅多に無いらしい。まず間違いなく自分がいるからだろう。脳内のもう一人の自分もそのせいだと訴えかけて来る。だから逃げろ、彼等の身を案じるなら今すぐに距離を置けと言っている。

 でも、まだ、その時じゃないと思う。

(逃げたって、あの朱璃って子の性格からすると、絶対に追いかけて来る。だからせめて、皆が安全な場所に避難するのを見届けてからにしないと)

 それが彼等を巻き込んでしまった自分の果たすべき責任だと思った。

 顔を上げたアサヒに、小波が語りかける。

「そんなに……気負わなくていいよ。君は、いいやつみたいだし……」

「ま、正体さえバレなきゃただの人間と大差無いしね。そもそも坊やのオリジナルだって人間離れした力を持っていたけど、結果的にゃ英雄と呼ばれ祭り上げられてる。お前さんも人気者になるかもしれないじゃないか」

「だといいんですけど」

 きっとそんなことにはならないだろうな。アサヒが諦め混じりの表情を浮かべ、二人がさらに何かを言おうとした、その時──

「なんや、この音?」

 カトリーヌが最初にそれに気付いた。

「機械……?」

 眉をひそめるアサヒ。モーターが回転しているような、そんな音がどこからか聴こえて来る。周囲の木々に反響しているせいで正確な方向や距離は掴めない。ただ、次第に音が大きくなり、近付いて来ていることだけは確かだ。

「追いついて来たわね……残り三分、急いで!」

 馬の背にもたれかかり回復に専念していた朱璃が上体を起こす。その言葉と同時に後方で木々が薙ぎ倒され始めた。

「な、なんだあれ!?」

 敵は再びトゲだらけの球体と化し、その状態でトゲの伸縮を巧みに操り高速回転しながら一行に迫りつつあった。



「クソッ、谷底でおとなしくしてろっての!」

 こうなれば魔素の消耗を気にかけている場合ではない。マーカスはライフルを構え前方に向かって二度三度と上下角を変えながら発砲した。魔法で作られたカマイタチが下草や邪魔な枝を切り払い、続けざまに飛来した突風がそれらをまとめて吹き散らす。

「走れ! ゴーゴーゴーゴー!!」

 自らは後方のアカリの元へ駆け戻りつつ、アサヒ達を前に進ませる彼。アサヒと門司は小波を両脇から抱え、カトリーヌと共に友之に先導されながら走った。

「頑張れ! あと少しで時間のはずだ!」

「残り二分半!」

 時計を確認しながらアサヒ達を鼓舞する友之。出現から一〇分間──それが記憶災害の維持限界タイムリミット。それを過ぎればあの怪物は勝手に消える。

「ジロさん、ウォール!! 木を倒して盾に!!」

「了解」

「ん」

 朱璃は馬上から冷静に指示を出した。マーカス同様、二人のライフルからカマイタチが放たれ、次々に森の木々を薙ぎ倒す。それらは複雑に絡み合って敵の侵攻を阻む壁を形成した。

 だが止まらない。若干進行速度が落ちた程度で、敵はそのバリケードを粉砕機さながらに砕きつつ尚も執拗に追いかけて来る。

(でも、これなら必要な時間は稼げる)

 朱璃はここから先の展開を予測しつつ再び対物ライフルを構えた。ちょうど戻って来たマーカスが馬に飛び乗り、素早く自分と彼女をロープで繋ぐ。

「走るぞ!」

 そう言った彼に次の指示を出す彼女。

「向こう側に渡ったら、一旦その場で停止!」

「なに!?」

 予想外の命令に戸惑うマーカス。だが、真司郎とウォールが同じように馬に跨って走り出してしまった。敵もすでに危険な距離まで迫っている。問答する余裕は無い。ひとまず朱璃の判断を信じて仲間達の後に続く。

 彼等はやがて先行する友之達に追いついた。そこで一旦速度を落とし、走りながら小波と門司を馬上へ引き上げる。

 ところが何頭かの馬がいない。乗り手がいないのをいいことに別方向へ逃げてしまったようだ。薄情な奴等である。

 馬が足りないことを確認してアサヒが叫ぶ。

「行ってください!!」

「俺も大丈夫です!」

 友之も頷いた。カトリーヌまで「行って!」と促す。朱璃の安全が最優先。いつも通りそう考えたマーカスは速度を上げた。すると三人も自力で食らいついて来る。

(オイオイッ)

 魔素によって身体能力が向上している上、調査官としての訓練も受けた二人はともかく、素人のはずのアサヒまでもが互角の速度で走り続ける。

「流石は英雄か」

 そう呟いた時、一行は鉄橋を渡って巨大な地割れの反対側へと移動した。橋は全く固定されておらず、一歩ごとに不安な揺れが発生する。やはり洪水か何かで偶然ここへ流れて着いたらしい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る