五章・襲撃(2)

「なッ!?」

 室内の暗がりから犬型の変異種が三匹、音も無く飛び出して来た。建物のどこかが崩落して穴が空いたのかもしれない。いずれにせよ密かに忍び込んでいた。正面の無謀な突撃は陽動だったということか。

 避け切れない──そう悟った門司は屈み込み、両腕で自分の首と顔を庇う。四つ足の獣が狙うなら、まずそこからだろうと思ったのだ。

 ところが予想に反し犬達は彼女を襲わなかった。脇目も振らずに背後で棒立ちしていたアサヒへと襲いかかる。

「ぐっ!?」

 やはり本能的に首を庇った彼の両腕と右足へ噛み付く獣達。顎に力を込め、四肢を踏ん張り、肉を食い千切らんとする。拘束されているためアサヒは抵抗すらままならない。

 すると奇妙なことが起こった。

「なんだ!?」

 護身用の小銃を抜いて助けようとした門司の目の前で、アサヒに噛み付いた獣達の体が銀色の輝きを放つ。その光から得体の知れない不気味な気配を感じた彼女は思わず動きを止めてしまった。

 直後、彼女とは逆に怯むことなく突っ込んで来た朱璃が両手に持ったナイフでアサヒの両腕に噛み付いた二匹の腹を切り裂く。

「ギャン!?」

 悲鳴を上げて床に落ちる犬達。

「もう一匹──っと?」

 残りの野犬も倒そうとした彼女だったが、またしても予想外の展開になったのを確認して観察に移行する。アサヒが自ら反撃に出たのだ。

「おい」

 いつの間にか両手首を拘束していたベルトが千切れている。彼は右足に噛み付いた犬の頭を左右から掴むと、少しずつ力を込めて締め上げた。

「離れろ」

「カ……ァッ」

 頭蓋骨がひしゃげ、顎関節が外れ、強制的に口を開かされる野犬。自分の足から離れたそれをアサヒは頭上高く振り上げ、床に叩き付けた。


 砕けたそれの血と肉片が飛び散る。


「……」

 敵は明らかに息絶えた。なのに無言のまま血だまりを見下ろし、さらに怒りの眼差しを注ぐ彼。さっきまでの気弱な雰囲気とはまるで別人。

 さらに、まだ原型を留めていた頭部に足を置くとそのまま躊躇無く踏み砕いた。虫でも潰すように、あっさりと。

 朱璃はヒュウと口笛を吹く。

「大したもんじゃない」

「え? あれ?」

 当の本人は、その瞬間にまた元の雰囲気に戻った。

「今、どうやって……?」

 自由になった両手を不思議そうに見つめる。もしかして、自分が何をしたのか把握していないんだろうか?

「うわ、なんだ!?」

 やはり、床一面に飛び散った血と肉片を見て青ざめる。どうやら本当に無意識での行動だったらしい。

 おかげで朱璃の中にも新しい疑念が生じた。

「アンタ、けっこう力が強いわね?」

「え……あ、うん、生まれつきなのかな……普通の人より、ちょっとだけ」

 血の海にビクつきながら答えるアサヒ。

 薄ら笑いを浮かべる朱璃。

「ちょっと、ね」

 そんなものじゃないだろう。頑丈なベルトを引き千切り、変異種の野犬を素手で簡単に殺害した。魔素に適合して進化を遂げた現代人であっても、アレを武器無しで退けるのは難しい。

(コイツは崩界以前の“伊東 旭”の再現……なのに、これだけの膂力を有している。それはつまり、そういうことなんでしょうね)


 ──魔素、あるいは伊東 旭を研究する者達は長年一つの謎について論じ続けて来た。

 彼は、いつから“適合者”だったのか?


 その特異な力が発揮されたのは地球が魔素で満ちた直後からだった。しかし、それ以前の彼を知る者達や彼自身の証言によって“崩界の日以前から普通の人間より身体能力が優れていた”とも伝えられている。

 だから、もしかしたら彼だけは生まれつきの適合者だったのかもしれない。研究者達は、その謎を解き明かすことで魔素の真実にも近付けるのではないかと考えた。

 だが彼は二百年以上も前に姿を消していて、同等の能力を持った者も現れない。当然、解明に至ることは無かった。

 今までは。


 朱璃は考える。目の前にいる“崩界の日”以前の伊東 旭を再現した存在は、明らかに現代人と同等以上の力を発揮した。これはつまりオリジナルの彼が生まれついての適合者だったという証ではないか?

 もちろん検証は必要。けれど、仮にその通りだったとしたなら少しばかり面白い別の仮説も浮かび上がる。


 つまり、魔素は元々地球に存在していた。


 二五〇年前のあの日、割れた月から漏出し地球を汚染した物質。けれど実は、微量ながらも元から地球上に在ったのだとしたら?

(神……悪魔……妖怪……そう呼ばれた者達の正体は、彼のように魔素に適合して埒外の力を得た存在だったのかもしれない)


 幽霊の 正体見たり 枯れ尾花


 多分、古来より目撃証言が後を絶たない霊というやつも魔素によって再現された誰かの記憶だったのだろう。魔素は水と結合しやすく、再現された記憶は一〇分間で元の魔素に戻る。水場に良く現れ、不意に消えるという幽霊の特徴と一致している。

「問題は、アンタが消えない枯れ尾花だってことよね」

「かれおばな?」

 朱璃の唐突な言葉に首を傾げるアサヒ。

 門司が巻きタバコを取り出しながら苦笑した。

「班長の独り言は考え込んでる時の癖さ。気にしない方がいいよ」

「あら、また口に出てた? まあいいわ、それよりドクター、一服する前に一応コイツの手当てもしてあげて」

「わかってるよ。ただ、ヤニが切れてると手元が狂うかもしれないからさ」

「完全に依存症じゃないの。いい加減吸うの止めなさいよ」

「班長命令でも、それだけは聞けないね」

 断固たる決意を示しながらタバコに火を点け、口に咥えながらアサヒの怪我を診るドクター。

 直後、彼女も驚いて目を剥く。

「こりゃ凄い。もう傷が塞がりかけてる」

「えっ」

「流石はあの“伊東 旭”の再現……これなら止血は必要無いね。ただ、奴等に噛まれた以上、感染症の心配はあるから消毒と注射はしとこうか」

「あ、はい……お願いします」

 少し腰が引けつつも、大人しく言われた通り治療を受けるアサヒ。こうして見ると肉体的にはともかく、内面は本当に普通の少年でしかない。

 しかし──

「げっ、なんだこりゃ?」

「おい、大丈夫か朱璃!?」

 中に戻って来たマーカス達が獣の死体に気が付き、心配して駆け寄って来た。

 朱璃は彼等の言葉を聞き流しつつ、踏み潰された犬の頭をもう一度見つめる。

(異常な回復速度……そんな能力、英雄さんにあったかしら? それに、大人しい性格と、さっき一瞬だけ見せた攻撃性……どっちが本当の“伊東 旭”なんだか)

 伝説の英雄には、まだまだ謎が多い。

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