四章・旅路(2)

 帰路という言葉があるが、旧時代と違って今の日本にはそもそも“道”など存在しない。もちろん都市内なら別。しかし、そこから一歩でも外へ出たら道無き野や山がどこまでも広がっている。かつての人里も、それらを繋ぐ道路も、二五〇年という長い月日によって朽ち果て、わずかに残った残骸も森に飲み込まれた。陥没して地の底に沈んだり、水底で水棲生物の住み処になった場所も多い。

 道が無い。だからといって、いつ記憶災害が発生するかもしれない状況でのんきに道路整備など行えるはずもなく、様々な地形を踏破できる馬は現代において最も有用な移動手段となっている。

 さて、アサヒが小波と共に乗っている馬はかなり大きい。実を言うとこの馬達も変異種だからである。魔素によって大型化した上、速力を活かして危険な肉食獣から逃げるため持久力を大幅に向上させた種だ。

 体型からして元はサラブレッドだったのだろうが、今の彼等は先祖のように脆い脚ではないし、重い荷と人間を背負って長距離を移動することもできる。その特性に目を付けた人間達によって捕獲され、自動車やバイクに代わる良きパートナーとして復権を果たした。もっとも当馬とうにん達がそれを喜んでいるのかは知らないが。

 他にも有益な家畜として飼われている変異種は少なくない。魔素は多くの場合、災害をもたらす。だが必ずしも害になるとは限らない。そういうことだ。


 まあ、それはそれとしてアサヒは困っていた。


「あの、ちゃんと乗ってくれない? さっきから君がフラフラしてるせいで、この子が落ち着かないみたいなんだけど」

 興奮気味の馬を宥め、アサヒを叱る小波。

 彼は申し訳なさそうに頭を下げた。

「す、すいません」

 しかし、そう言われても彼は彼で目の前の女性の体に触れないよう気を遣いつつ必死にバランスを保っているのだ。乗馬なんて初体験だから落ちないようにするだけで大変なのに、どうしてこんな気苦労までせねばならないのか。これならいっそ歩かせてくれた方が楽な気さえする。

(この服にも慣れない……)

 門司もんじという変わった苗字の女医さんの話だと、自分が元々着ていた服はちょっと目を離した隙にどこかへ消えてしまったらしい。それで今は体格的に一番近いマーカスさんの予備を借りている。

 ──のだが、どうしてこんなにピッチリしたスーツなんだろう? 一応胸や下半身など要所要所は厚めに作られている。しかし、それでも旧来の洋服に慣れた身としては羞恥心が刺激されて仕方ない。女性陣が視界に入ると目のやり場にも困る。せめてこう、上から布でも巻いてくれないものだろうか。

(着心地は悪くないけど……)

 内側はスポンジのような感触で、通気性が高そうには見えないのに不思議と蒸れない。昨夜は寒かったが、日中の気温なら問題無く過ごせる程度には保温性も高かった。

 それに初めての乗馬は楽しくもあった。視点がいつもよりずっと高い。遠くまで景色が見渡せて、前から後ろへ風景が流れて行く。まあ、どこもかしこも森ばかりなのだが。

(あ、トラックかなあれ?)

 木々の合間には時折、旧時代の残骸が顔を覗かせることもあった。建物、車、横倒しになった送電塔。それらを見る度に哀愁と、真逆の興奮が同時に湧き上がってくる。

 昔、母と一緒に観た考古学者が主人公の映画を思い出した。遺跡好きのあの主人公も今の自分と同じように、相反する気持ちを抱えながら遠い時代の遺物を眺めていたのだろうか?

 やがて森が途切れ、草原が目の前に広がった。緑色の草の海と空の青のコントラストに一瞬で心を奪われる。映像でなら同じような景色を見たことはあった。でも実際に目の当たりにしたのは初めて。


 瞬間、やっと理解した。


「俺……旅をしてる」

「そうね?」

 何を当たり前のことをと眉をひそめる小波。途端、ボーッとしていたアサヒの体が傾き、そのまま落馬しそうになった。

「危ない!」

「うわっ、わわわっ」

 慌てて腕を振り回し、目の前に差し出されたものを掴む。それを支えにどうにか体勢を立て直す彼。

「気を付けろ」

「は、はい」

 それはウォールの長銃だった。物騒な物を掴んでしまったことに驚き、慌てて手を離す。ともすれば失礼に映る態度だったが、寡黙な大男は気にせず顔を前に向けた。

 同時に目の前で小波が嘆息する。何かを諦めたように。

「危ないから、腰に手を回して」

「え……でも」

「いいから」

「はい」

 迫力に負け、言われた通りにするアサヒ。その瞬間にまた驚いた。予想よりずっと固い感触が伝わって来る。

(この人、腹筋バキバキだな……よく見ると腕もガッチリしてる)

「なんか失礼なこと考えてない?」

「いえ」

 実際には考えていたが、怖いから否定する。

 でも──

(さっきまでより、ずっと乗りやすくなった)

 人間でない自分を気遣ってくれた。それが嬉しかった。おかげで周りの景色を安心して楽しめる。人生で初めての旅の最中だと気付いた少年は、馬上から目を輝かせて様変わりした日本の風景を眺め続けた。

 やがて遠い昔に友人達と交わした会話を思い出し、少しだけ泣いた。



「今日はここで休憩」

 変異種や記憶災害に遭遇せず、ここまでの旅は順調。とはいえ、筑波からとりあえずの目的地である福島までは、およそ二〇〇キロの道のり。馬の脚でも半日で辿り着ける距離ではない。そのため一行は途中の白河市で一泊することにした。月明かりに頼るしかない今の世界で夜間の移動は危険すぎる。

 ここでもやはり筑波と同じように、現存していたコンクリートの建物を補強し簡易宿泊施設に作り変えてあった。といっても朱璃達がやったわけではなく、昔の調査官や兵士が時間をかけて少しずつ各地に増やしていった拠点の一つだ。そんな先人達の努力のおかげでくつろげるわけだから、十分に感謝しなければならない。

「今回も泊まらせてもらいます」

 神社を参拝する時のように、入口の前で手を合わせて拝む朱璃達。そういう習慣がまだ残っていることにアサヒは驚かされた。


 それから、しばらくして──


「よっと」

 薪ストーブの前で座り込んでいた中杉 真司郎は、立ち上がり、ストーブの上に置いて温めた缶詰を手に取る。そして、その中身を金属製のカップに半分注ぐと部屋の隅にいるアサヒの元へ近付いた。

 彼は組織内でも最年長の調査官で白髪が目立つ老人だ。年齢は六二歳。今の日本でここまで長生きした上、現役で調査官を続けられている人間は他にいない。そのため老齢ながら班員達からは一目置かれている。

「飲むかい?」

「え……」

 驚いて顔を上げるアサヒ。彼は昨日と同じように手足を拘束され、さらに壁を補強している鉄骨の一つにロープで繋がれていた。すぐ傍には見張りの友之も立っている。

「ジロさん、それは」

「班長の許可はもらったよ」

 そう言って彼がチラリと視線を向けると、今もストーブの近くに陣取ったままの赤毛の少女が小さく頷いた。それを見て友之も納得する。

「それなら、まあ」

 班長がいる手前、口には出せない。けれど彼としてもアサヒに対し、こういう扱いをすることは心苦しかった。魔素によって再現されただけの虚像だとしても“伊東 旭”は子供の頃から憧れてきた英雄なのだ。相手が人の形で人の言葉を喋っている時点でどうしたって情は移るものだし。

「というわけだ、遠慮せず、さあ」

「でも、俺は……」

 アサヒは見るもの全てに目を輝かせていた道中の様子とは逆に、今度は陰鬱な面持ちで俯いてしまう。

 自分は本物の人間ではないから。そう言いたいのだろう。嘆きたくなる気持ちはわかる。こんな仕打ちをする自分達が疑われることも至極当然の話。

「だが、魔素は忠実に“人間”の君を再現しているはずだ。人間なら誰だって腹は空くさ。私達も大して食糧は残っていないからこれ一杯が限界だが、飲まず食わずで倒れられても困る。だから私達を助けると思って、飲んでくれ」

「……」

 おずおずとカップを受け取るアサヒ。そして中のスープを一口啜り、驚く。

「うまい……」

「そうかあ? 俺はそれ、薄味すぎると思うけどな」

 異論を唱える友之。真司郎は同じ物を飲みながら苦笑を浮かべ、やんわりたしなめる。

「贅沢を言っちゃいかんな。食品開発局だって苦心の末に作ってくれたんだから。私らが旅先でも美味いものをなんて我儘を言ったばかりにね。いや、あの時は本当に余計な世話をかけてしまった」

「へえ~……って、もしかしてジロさんの知り合いが作ったんスか?」

「ああ」

「マジスか、すいません。あ、その人にはさっきの言わないでくださいね」

「告げ口などせんよ」

 微笑む真司郎。その友人もだいぶ前に亡くなった、という事実は言わないでおく。目の前の少年がせっかく食事を楽しんでいるのだ。なら、そのまま楽しませてあげた方が今は亡き友の魂も喜ぶだろう。


 代わりに、彼の食事が終わるタイミングを見計らって訊ねてみた。


「アサヒ君、今の世界はどうだった?」

「……どう、って」

「旧時代を知る人間の意見を聞きたい、それだけだよ。単なる好奇心さ、そちらも深くは考えずに答えて欲しい」

 座って目線を合わせ、にこやかにそう要望すると、アサヒはしばし考え込み、やがて口を開く。

「綺麗だな……と、思いました。俺、東京以外は見たことが無かったんで」

「そうだろうね」

 彼が生まれ育った時代は人類の長い歴史の中でも指折りの苦境だった。今も相当なものだが、彗星衝突後の世界で生き延びるため地下都市の建設という一大事業に注力していた旧時代末期の人々に、旅行なんて楽しむ暇は無かっただろう。

 その点、ひょっとしたら自分達の方が恵まれているのではないかと考えることさえある。彼等の時代の人間に比べたら、まだしも自由だろうから。

「過酷な世界ではあるが、悪いことばかりではない。是非、楽しんでくれ」

「はい……」

 頷きつつ、自分の手足を縛る拘束具へと目線を落とすアサヒ。こんな扱いを受けていて楽しめも何も無いものだと、その目が如実に物語っている。

 真司郎は再度苦笑した。

「それに関してはすまないね。私達もまだ、君を信用し切れていない」

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