四章・旅路(1)

 地上に雲が降りて来たかのような、高くて分厚い壁がそびえ立っている。それは絶えず右から左へ回転を続けていた。

「あれが……」

「そう、今の“東京”の姿」

 早朝、星海ほしみ班の面々は再び筑波山上へ登り、伊東 旭“もどき”に現在の東京を見せてやった。彼がしきりに気にしていたから。

 この距離でも見える巨大な銀色の壁。回転しながらそびえ立つ、濃密な魔素が形作った雲の結界。その中にあるのが、かつて日本の首都だった街だ。

 あの場所では二五〇年前の崩界の日以来、ずっと同じ状態が続いている。原因はすでに判明しているのだが、誰にもそれを取り除くことはできない。

 今は、まだ。

 雲の壁は地下や海中にまでは及んでおらず、中へ侵入すること自体は容易だ。でも生還できた者はほとんどいない。わずかな生還者もすぐに逃げ帰って来ただけで、二度と壁の向こうへ行こうとはしなかった。

 彼等の話によると、内部は常時“記憶災害”が荒れ狂っている地獄だと言う。あれだけ膨大な量の魔素が集まっていたら、それも当然のことだろう。

 中だけでなく、あの雲の近くも超がつくほどの危険地帯だ。だから今の関東地方に人間は暮らしていない。北日本の場合、福島の猪苗代湖の北側を通っていた国道49号線以南を全て進入禁止エリアと定め、許可を得た者以外の立ち入りを固く禁じている。

 南との交流が少ない一因もそれだ。日本海側から大きく迂回していけば最も危険な地帯を避けること自体は可能。だが現状、そこまで危険を冒すメリットが無い。海路も空路も使えない以上、移動手段は陸路に限られるからだ。長年放置された道路は崩壊してしまっているし、そのため車のような乗り物も使えない。必然、移動には長い時間と多大な労力を要する。また当然のことだが、危険地帯を避けたところで変異種や記憶災害に遭遇する可能性が皆無になるわけでもない。

 ついでに言うと、北と南は一度戦争したことがある。その時に不可侵条約を結んだので向こうへ渡ることは政治的な意味でも難しい。それは重大な協定違反にして犯罪行為なのだ。

「そんな……」


 朱璃あかりからそれらの説明を受けた“もどき”は膝をついてうなだれた。ようやく理解できたのだろう。今の世界の状況と自分自身の境遇を。


「じゃあ……母さんは、みんなは……」

「とっくの昔に死んでるわ。本物のアンタも含めてね、アサヒくん」

 人の意識を持つものを“もどき”呼ばわりするのは心苦しい。だからせめて名前で呼ぶべきだと班員達に諭され、しかたなく朱璃は従った。ただし彼女の中ではカタカナで“アサヒ”と呼んで区別を付けている。

 情など移してたまるものか。これは実験材料だ。人類がさらに前に進み、いつか“記憶災害”を屈服させるための踏み台に過ぎない。

「母さん……」

 霧の壁を見つめ、うちひしがれた様子で涙を流すアサヒ。そんな彼とは逆に、朱璃の瞳には強い憎悪が宿っていた。


 あの壁の向こうにいる敵を、いつか必ず葬ってやる。


 彼女が力を求める最大の理由はそれだ。この怒りと憎しみを受けるべき相手にぶつけてやりたい。そのためなら、どんなものだって利用してやる。

 それから三時間ほど調査を続け、彼女達は下山した。




 午後になり、星海班は再び移動を始める。物資が残り少ないため補給と報告を兼ねて人の住む街まで戻るのだ。朱璃としてはそのまま王都までアサヒを連れて行きたい。

 だがとりあえず、中継地点となる福島を目指す。おそらくは、そこでしばらく留まることになるだろう。アレの正体を考えれば、いきなり王都へ連れて行くことは難しい。お偉方に事情を説明して許可を得るまで、早くとも数日を要するだろう。長ければ──どれだけかかるのか朱璃にも計りかねた。なにせ、こんなことは前例が無い。

(まあ、ゴネるようならアタシが直接出向いて説得ね)

 それでかなりの時間を短縮出来るはずだ。

 もちろん班員達にも休息が必要。コンディションの低下は集中力の欠如を招き、ひいては任務の失敗や無意味な殉職に繋がりかねない。


 わかっている。自分は班長なのだ。彼等の命を預かっている。

 とはいえ残念なものは残念だ。不満そうに唇を尖らせる彼女。


「収穫はこれだけ、か」

 馬上で呟く。馬を操っているのは彼女ではなくマーカスで、朱璃はその後ろに背中合わせで乗っていた。上向きに広げた手の平には黒く煤けた鈴が一つ乗っている。

 あれから午前中の時間をめいっぱい使って筑波山の火災現場を調べてみたのだが、捜索範囲を広げても大したものは見つからなかった。

 発見出来たのはこの鈴と、いくつかの焼死体だけ。あの場にはアサヒ以外の人間も数名いたらしい。

(まあ、謎を解く取っ掛かりにはなるかもね)

 大きな発見とは言い難いが、小さくもない。まずまずの収穫である。

「連中、何をしに来てたんだ?」

「さあね」

 それを探り当てるだけの時間が無かった。やはり、もう一日くらい調査を継続するべきだったろうか? いや、やはり帰りの日数を考えるとタイムリミットだった。それにあの場所でこれ以上の手がかりが得られたようには思えない。見渡す限り全て焼き尽くされていたのだから。

 焼け方から察するに、あちこちで火が点けられたようだった。少なくとも自然発生した山火事ではない。放火、もしくは記憶災害の類だろう。油などの燃料の匂いはしなかったから多分後者だ。

 そして、焼死体の身に着けていたものはほとんど焼失してしまっていたが、傍には必ずこの鈴と同じ物が落ちていた。

 鈴には、その名の通り錫が素材として用いられることが多い。融点が低く加工しやすい金属だからだ。錫という字が“金”と“易”を組み合わせているのも鉄などに比べて簡単に引き延ばせる性質を表したからである。

 ところが、この鈴はあの火災に巻き込まれても溶けていなかった。耐熱性の極めて高い合金を用いているからだろう。相当な腕と知識が必要になる。現代の日本でこういう金属を作り出せる場所と言えば北日本の一部の工房を除けば──

(多分、大阪でしょうね……)

 よく見ると、表面には細かい八桁の数字が刻印されていた。この鈴の持ち主が誰なのかを示すためのものだ。つまりこれは旧時代の兵士が身に着けていた認識票である。持ち主は南日本の“術士”と呼ばれる者達だろう。


 霊術──そう呼ばれる技術が南日本には存在している。どうもこちらの“疑似魔法”とは異なる原理で超自然的な力を引き出すものらしく、その威力は絶大。一人の術士の力はこちらの精兵一〇人分に匹敵すると言われており、数人がかりでなら“生物型記憶災害”を倒すことも可能だそうだ。

 その代わり、疑似魔法以上に才能に依存するところが大きく、技術を学んでも才能の無い人間には小さな火一つも生み出せないという。そのため術士自体の人数は一〇〇人もいないそうだ。疑似魔法の場合、習得が容易で体格による許容量の差以外にはほとんど個人差が生じない。その点を考えると一概に霊術の方が優れているとも言い切れないだろう。


(忍者じみた体術も学んだって言ってたわね……動く時に鈴を鳴らしてしまうような奴は半人前だとか)

 昔、向こう側の事情に明るい人物から聞いた話だ。嘘か誠か知らないが、ともかく南の術士達がこの可愛らしい鈴を認識票として持たされていることは事実だそうな。実用性を考えれば無駄でしかないチョイスだと思うのだが、南の人間の考えることはよくわからない。

 ともあれ、そんな南の精兵が何故か不可侵条約を無視してこちら側まで来ていたらしい。正式な命令を受けてのことか、あるいは一部が脱走してきたのかもしれないが、なんにせよ穏やかな話でないことだけはたしかだ。アサヒと繋がりがあるかどうかも不明。

(まあ、状況的に無関係だと考える方が難しいわね)

 死体はどれも完全に炭化してしまっていたため、調べる価値無しと判断し、土に埋めて来た。余計な荷物はなるべく持たないに限る。

「アイツも覚えちゃいないらしいし、どうなってんだ?」

 馬上で首を巡らせるマーカス。その視線の先には小波と同じ馬に跨っているアサヒの姿があった。あの場に南の術士がいたと判明した直後、当然彼にも事情を尋ねてみたのだが、何もわからないと言う。自分達に保護される以前の記憶で最も新しいのは地下都市の建設作業に従事していた際のものだそうだ。

 彼自身の認識としては、平和な世界からいきなり二五〇年の時を超えてこの物騒な時代に現れてしまった、ということらしい。本当に友之の好きなSF小説のような話だ。

「術士達が何かした結果、彼等の死後に“再現”が行われたのかもしれないわね」

 魔素が記憶を“再現”する現象が記憶災害。そして、何が“再現”されるかはその時の周囲の環境から影響を受けて決まる。伊東 旭に関連する何かがあった、もしくは起きたからあの場でアサヒが誕生した可能性はある。

「ヤロウの言い分を信じるなら、たしかにありえる話だが」

 だが、真実を語ったとは限らない。少なくともマーカスは疑っていた。朱璃も半信半疑である。尋問時の反応を見る限り嘘をつかれたようには思えなかったが、人間は無意識にだって偽りを吐ける生き物なのだ。それを再現した彼もまた然り。

 ちなみにアサヒが小波の後ろに乗っているのは、消去法と運試しの結果である。街まで連れて行くと決めた以上、歩かせるわけにはいかない。移動に時間がかかりすぎる。かといって友之や真司郎、ウォールとの二人乗りでは体重が重すぎて馬が保たない。そのため残る女性陣二人のうちどちらかが同乗することになり、恨みっこナシのクジ引きの結果、小波が選ばれた。

「なんで私が……」

 優等生の小波も、流石に後ろに“生物型記憶災害”を乗せているこの状況では不平を漏らす。顔色も悪い。

「かんにんなあ小波。うちのクジ運が強いばっかりに」

 言葉とは裏腹にニコニコ顔のカトリーヌ。後輩が困り顔のこの状況を楽しんでいるのが丸分かりだった。

「だからアタシが一緒に乗るって言ってんのに」

「馬鹿言え」

 朱璃の再度の提案を即座に却下するマーカス。彼には他の何を差し置いてでもこの少女を守らなければいけない理由がある。人類全体にとっても彼女の頭脳を失うことは大きな損失だ。あんな化け物の近くに置いておけるはずが無い。

 万が一にも暴れ出した場合に備え、小波とアサヒを乗せた馬の四方は残る四人が固めていた。少しでも怪しい動きを見せたら撃てと命じてある。だからアサヒの表情にも緊張感が張り付いていた。

「まあ、野郎にゃ同情するがな」

 東京が壊滅していること。それから二五〇年が経過していること。そして自分が本物の伊東 旭ではないこと。どれ一つ取っても簡単には受け止め切れない事実ばかりだ。むしろよくこの状況で冷静さを保っている。

(案外肝が据わってんのかもな)

 だとすると好感が持てた。しかし、だからといって甘い顔は見せられない。彼等調査官は誰より近くで記憶災害の脅威を目の当たりにしてきたのだ。たとえそれが人の形をしていようとも、あれが魔素の塊である以上、油断など出来るはずもない。

(本当なら今すぐに始末してえ)

 とはいえ──

「殺しちゃ駄目よ? 貴重なサンプルなんだから」

 彼等の班長がアレの始末を認めていない。どうしても王都まで連れ帰って詳しく調べてみたいらしい。

「許可が下りねえと思うがな」

 生物型記憶災害を王都に持ち込むなんて本来なら極刑に処されてもおかしくない行為だ。福島まで連れて行くだけだって相当にヤバい。

 なのに背後からは朱璃の自信満々の気配が伝わって来る。

「下りるわよ、アタシのお願いならね」

「やれやれ」

 そんなこたぁ無いと言い切ることは、彼には不可能だった。

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