第8話 先輩

 事情聴取を終えると、家に帰ってきた。

 おかんは事件のことをなにも喋ろうとはせず、すぐに夕食を作り出した。話を聞きたかったが鳥の唐揚げだったので、わーいと喜び尋ねることはなかった。


 次の日、おれは学校に向かっていた。

 眠い目を擦っていると、前に澪先輩が歩いているのが見えた。


 隣に友達がいるようだが、同年代と比べても澪の身長は低かった。以前、尋ねてみたら百五十センチもないと言っていた。コンプレックスを感じているようだが、おれは可愛らしいと思う。そう言うと、百八十センチもある人に気持ちがわかるはずないと、怒られてしまった。

 色んな意味でとても小さな先輩だが、いつも元気があり、人懐っこい笑顔を見せている。おれとは違い、学校で人気があった。


 挨拶をしようと思ったが、友達に嫌がられるかと思い、声をかけなかった。のだが、澪はこちらに気がつき振り向いた。


「おはよう、けいとくん」

 立ち止まると、人懐っこい笑顔を浮かべて手を挙げた。

 澪だけが、けいとくんと、親しみを込め毛糸と同じ発音で呼んでくれる。他の生徒は、そもそも啓斗くんと呼んでくれなかった。千条くんか千条さんだ。

「おはようございます」

 とおれは挨拶した。


 澪の隣りにいたのは、森(もり)心美(ここみ)。澪と同じく二年生で、彼女も学校で人気があった。手足が長く顔は小さくスタイルが良く、まるで芸能人であると、女子生徒から羨ましがられていた。妬みの対象になっていないということは、それだけ人望もあるのだろう。

 他校でも森心美の名前は知られているようで、その容姿を見たことはないだろうが、有名であった。名前だけが広まっているらしい。

 可愛い人ということは認めるが、おれからすれば澪先輩が一番だった。


 森はおれを見ると、表情を曇らせた。

「澪ちゃん、私先に行くね」

「え? うん、わかった……」

「また教室で」


 森は駆け足で進んでいった。みるみるうちに背中が小さくなっていった。

 避けられた。

 だが仕方がない。悪い噂を聞いているのだろうし、入学してすぐに上級生と揉めたのも良くなかった。相手から因縁をつけてきたのだが、そんな経緯は森には関係ない。


 おれは澪の隣に立った。

「どーしたんだろ、心美ちゃん」

 白々しく、澪は言った。

「なんなんでしょうね」

 おれも白々しく肩をすくめた。


 澪が歩き出し、おれも足を進めた。身長差があるので、歩幅を慎重に合わせなければならなかった。ちょちょこと歩き、可愛いと思った。


 澪はこちらを見上げると、

「けいとくん、相変わらず眉間にしわを寄せてるね!」

「先輩は相変わらずミニチュアやけどね」

「毎朝毎朝、牛乳を飲んでいるけど伸びる気配はないよ。どうにもならない。身長はどうにもならないけど、眉間のしわは直せるでしょ?」

「……それもそうですけど、癖みたいなもんですからね、なかなか難いんですよ」

「直したら、もっとみんなと仲良くなれるよ」

「手痛いことを言いますね……」

 澪はふふっと笑い、勝ち誇りながら頑張りたまえと言った。


 先輩の言う通りだと思う。

 ただでさえ背があり威圧感があるのだから、恵比寿様のような顔ならば少しは緩和されるであろう。しかし、ホクロがあるように、おれの眉間には常にしわが刻まれているのだった。常に他の者を威圧しなさいという、神の嫌がらせなのだ。


 ただ、澪が至って普通──普通ではなく特別ならば尚良いが──に接してくれているおかげで、みなの印象も変わってきたように思う。

 クラスメイトとも少し喋れるようになり、他の学年の学友からも、歩いていても避けられることはなくなった。以前までは半径二メートル以内に入ってこようとしなかったが、なんでもないようにおれの脇を通り過ぎていく。中学の頃はそうもいかなかったため、たいへん感動した。


 なぜ脇を通ったのかと、質問したかった。


 いや、した。勢い良く近づき興奮して質問したら、悲鳴を上げ逃げられてしまった。

 普段の、澪との関係を見たり会話を聞いたことにより、マイナスから徐々にプラスへ転じ始めていた。印象メーターはまだまだマイナス数値ではあるが。


「ほんま、先輩には感謝してますよ」

「なに、いきなり」


 おれは意味を答えず頬を緩めた。


 学校に着くと、澪は二学年がある二階へ向かい別れた。

 おれは教室に入り窓際の自分の席についた。

 窓の外を見る。九月はまだまだ熱い。開け放たれた窓から入る風が、とても心地良かった。優しく頬を撫でてくれているようだった。隣の席で友達と話していた男子生徒が、遠慮して声のボリュームを下げた。気を使わなくともいいのにと思った。声を抑えなくても、笑いたい時に大声で笑えばいい。その方が、より心地良くなるというものだ。


 あとはおれ次第か……。

 先輩のお世話になってばかりもいられない。


 感謝してもしきれない。中学の頃から――。


 あれは、中学二年の春と夏あいだのことだった。


 仕返しとやらで多人数に襲われ、おれはボロボロになった。仕返しといっても、因縁をつけてきたのは連中だった。相手は二人。面倒だがそれぞれ二、三発殴り追い払った。すると十人になって返ってきた。

 抵抗したが、数には抗えなかった。

 連中は頬に吐きかけると高笑いし去っていった。


 体中が痛み、右目を開けられなかった。失明したんじゃないかと心配にもなった。もし失明したのなら、襲った奴らの目も頂こうと思った。近くに公園があり、そこで少し休むことにした。ベンチで横になり、痛みに喘ぎながら、こんな目に遭わせたやつに絶対に復讐してやろうと誓った。


 声をかけられた。女の声だ。目を開いてみると、背の小さな女の子がいた。小学生かと思ったが、同じ中学の制服を着ていた。しかもスカーフの色から先輩だとわかった。


 ――大丈夫ですか……?

 とその先輩は言った。おれはしっしっと手で払いながら、

 ――気にしやんといてくれや。

 なんて失礼のことを言ったかもしれない。

 それでも先輩は怒ることなく、ハンカチを差し出した。水色でスヌーピーが描かれた。可愛らしいハンカチだった。

 ――これ使って……。

 先輩は震える声で言い、ハンカチを渡すと足早に去って行った。


 きっと怖かったのだろう。当然だろう。喧嘩ばかりし、腫れた顔をしていたのだから。だが喧嘩ばかりし、腫れた顔をしていたからこそ、勇気を出し、声をかけハンカチを渡してくれたのだ。


 おれはそれが嬉しかった。


 胸の当たりがチリチリと傷んだ。今まで体験したことのない痛みだった。


 ハンカチは血で汚れてしまったので、後日、おれは白い生地にスヌーピーが描かれたハンカチを買い、学校で澪を探した。小さな先輩であるためすぐに見つけることができた。感謝の言葉と共に、ハンカチを澪に返した。澪はもう怖がることはなく、人懐っこい笑顔でどういたしましてと言った。

 それから澪と喋るようになり、不良以外で唯一、接してくれる人となった。澪のお叱りにより、仕返しの仕返しは行わないことにした。連中のおかげで、澪と知り合えることになったのだから、許してやることにした。


 春と夏のあいだのことを回顧していると、気がついたことがあり、あっと声をもらした。びっくりしたように隣にいる男子生徒がこちらに向いた。

 事件のことを、探偵志望の澪に教えてやるのを忘れていた。

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