第34話 優しさだけを残した現実

 次の場面は基地からの帰り道。それは落ち着いた春のにおいが、芽吹めぶき始めた新緑しんりょくかおりへと移り変わり始めていた初夏しょかの日の思い出だった。


『——ねっ、ユキトくんってさァ、自分の名前の由来って知ってる?』

『うーん、知らないなぁ。聞いたこともないよ』


 基地から僕の家までの道を歩きながら、たわいのない話題に興じる彼女たちの頭上で、雲雀ひばりがフルートを吹くように鳴いていた。きめ細やかな歌声の響くそのほんの少し下を、夢に気づいた僕はまるで幽霊か透明人間かのように彼らの姿を眺めている。


『じゃあさ、どう思う? 自分の名前の由来』

『そうだね……』夢の中の僕は考えるそぶりを見せて、『まぁありきたりなのはしあわせになって欲しいって感じじゃないかな? 幸せなひとって書いて幸人ゆきとだし』


 夢の中の僕はそう言うけれど、ひどい皮肉だと僕は笑った。そんな名前をいだきながら、幸せとは程遠い道を歩んできた。名付け親であるはずの父が僕をそういう道に突き落としたというのは、滑稽を通り越してもはや喜劇だった。


 それとも、それはただの甘えで、どんな茨の道の上でも幸福になる方法を見つけ出さなければならないとでも言うのだろうか。あたかも獅子しし千尋せんじんの谷へと突き落とすように、過酷な状況に僕が奮起することを彼は期待しているとでも言うのだろうか。


 馬鹿げた妄想に夢が醒めそうになったところで、ふと、僕は思い直す。


 いや、道はあったのだ。彼女がいた世界では、確かに見えていた。


 その証拠に、夢の中の僕は穏やかな雰囲気をまとっていた。かたわらには無邪気に笑う彼女。その懐かしい姿に僕は夢を見ていた気になる。


 でも、きっと現実は夢よりも過酷で、夢よりも儚いものだった。


 どれだけ手を伸ばして触れようとしても、どれだけ触れたいと願っても、失ったものは戻ってこない。


 儚くも美しいとされるこの世界で、失ったものに触れる方法はふたつだけ。思い出に浸るか、あるいは夢を見るか。そのどちらかだ。


 そして思い出は現実を切り取り、夢は現実をなぞっていく。優しさだけを残した現実を。


『むむむ、いいよねキミは、漢字だから推測できて。わたしには無理だもん』

『あ、そうか。きみの名前って片仮名でアンリだものね。それって本名なの?』

『うん、本名だよ。戸籍にもそう登録されているしね』


 彼女は不満そうに唇を尖らせて言った。


『あーあ、どうせ珍しい名前ならもっと刺激的な名前がよかったなァ』

『へー例えば?』

『う~ん、そうだねェー……』と、彼女は道に咲いた赤い花に目を移しながら、『ガーネット春風はるかぜとか?』

『リングネームみたいだという率直な感想はこの際置いておいて、ふむ、風戸かざとガーネット春風か……うん、いいんじゃない? 一度聞いたら忘れなさそうで』

『適当だなァ~、絶対バカにしてるよー』


 怒ったふりをする少女に、夢の中の僕は肩をすくめて笑った。


『バカにはしてないよ。今の名前の方が良いと思ってるだけで』

『え~なんで~? だって普通じゃない? アンリって。世界中に一億人はいそうだよォ?』

『別に多いからって価値が損なわれるわけじゃないさ。ましてや人の名前となるとね。それに……』

『それに?』

『僕は好きだよ、きみの名前。響きが綺麗だし、きみの雰囲気に良く合っているからね』


 彼女はぴたりと立ち止まった。


『どうしたの?』

『……前から思ってたけどさ、キミって案外女たらしみたいなところあるよねー。将来たくさんの女の子を泣かせそうだァ』

『何言ってるんだよ、僕が女の子を泣かせられるわけないだろ?』

『いやいや、実際さっきのキミのセリフは危なかったよ? わたしが女だったられてたね』

『知らなかったよ、きみが男だったなんて。ずいぶん上手く変装していたものだね』


 からかう僕に、彼女はジトっとした視線を向けて、


『むぅ、最近のキミは間違いなく凛太郎の影響を受けてるなァ。それも悪い方向に』

『ははっ、来栖くんは僕の教育係だからね。教え子としては当然のことだよ』

『まったくぅ、いつのまにそんなに仲良くなったんだか……』


 困ったように微笑んだ彼女は、僕らの浮かぶ空へと視線を移しながらそっと呟いた。


『……なんか妬けちゃうなァ』


 甘くて、苦い。そんな言葉では表現してほしくない感情が去来した僕の意識をなぐさめるように、晴れ渡る空の上では雲雀がさえずり続けている。


 縄張りを主張しながらも自由に空を駆け回る雲雀の姿がどこかのだれかに重なった。


『それより』と、夢の中の僕は言った。『きみの名前の由来、本当に気になるんならきみのお父さんに訊いてみればいいじゃないか。きっと教えてくれるよ』

『んー無理だよ。お父さんとは最近会ってないから』

『電話すればいい。別に仲が悪いってわけじゃないんでしょ?』

『そうだけど……ほら、わたしって思春期の女の子なわけじゃない? なんだかお父さんに電話するのって抵抗があるんだよねェ』


 あんまりな理由に夢の中の僕は笑う。柔らかな笑みだった。


『あ、でも理想はあるよ?』と彼女が言った。

『理想?』

『そ。わたしの理想は……』


 しかし、彼女が話そうとする、まさにその瞬間だった。


 突然あたりにノイズがとどろいた。


 ジリリリと、夢の崩壊を、現実世界への帰還を告げるベルの音。


 あらがいたいけれど、音は止まってはくれない。ぐにゃりと画面をき崩すように僕の意識が浮上していく。


 夢と現実の狭間のなかで、夢が夢としていつまでも続いていく世界を僕は望んだ。だけどまた、今までとおなじように、世界から裏切られた僕の意識は確実に目覚めへと向かっている。


 あの五月の柔らかな日差しのなかで、彼女はなんと言っていただろうか。思い出そうとしてみるけれど、どうしても思い出せない。流れる雲を掴もうとするかのように、するりと僕の手から逃れていく。


 ――わたしの理想は……


 今さら思い出す意味はないはずなのに、その続きを、ただ無性に知りたかった。

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