第三章 きみとまた逢えたとしたら

第33話 未来と可能性

 夢を見ていた。


 もうずっと昔の夢。


 まだ彼女がいた頃の夢だ。




『おーおー、朝から精が出るねぇ』


 冬の太陽がまばらな光を街中まちじゅうびせていた一日。


 彼女に付き従う形で基地の訓練場にやってきていた僕らにだれかが声を掛けてきた。


『ちょっと何しにきたのよォ、凛太郎りんたろう。冷やかしならお断りよ』


 腕を組んで不満げな声をもらす彼女に向かって、その人物、来栖くるすくんは肩をすくめる。


『へっ、つれねえな。せっかく幼馴染が様子を見に来てやったってのによ。そんなにお気に入りの相手に忙しいってか』

『別に頼んでないわよ。というか、暇なら凛太郎も一緒にやったらどうなの?』


 呆れたように言う彼女に、来栖くんは軽薄けいはくな笑みを浮かべて、


『俺はいいさ。きょうはお前らと訓練しにきたわけじゃねえからな』

『むぅ、ならホントに何しに来たのよ』

『決まってんだろ? 訓練だよ』

『はぁ? あんたいま訓練はしないって言ったじゃない』

『ああ、するつもりはねえよ。一緒には、な』


 と、来栖くんはへばっていた僕をみて、嘲笑あざわうように言った。


『そんな奴とやっても訓練になんねえだろ?』

『……』


 その冷たい視線に僕は萎縮いしゅくする。道端みちばたの枯れ葉を見るような彼の視線はむき出しの刀そのものだった。


『むぅ、ま、確かにそうかもね。悔しいけど、いまのユキトくんじゃまだ凛太郎の訓練にはついていけないし』


 かばってくれるのかと思って勝手に落ち込んでいた僕をよそに、『——でも』と彼女はニヤリと微笑んだ。


『見てなさいよォ。いまは負けてるかもしれないけど、絶対ユキトくんの方が強くなるんだから! ふふん、今から負けたときの言い訳でも考えておくことね!』

『ちょ、ちょっと!?』 

『はは、面白え冗談だ。俺がコイツに負けるって?』


 来栖くんは戦争のない世界を信じるいたいけな少女を見る目を浮かべて、


『ありえねえよ。たとえ天地がひっくり返ったとしてもな』

『じゃあ賭ける? 景品はなんでもいいわよ』

『あん?』


 鋭い視線を送る来栖くん。しかし彼女は飄々ひょうひょうと受け流して言葉を続ける。


『いつかアンタとユキトくんが勝負して、もしその時にユキトくんが負けたらアンタの言うことをなんでも聞いてあげるわ』

『……へぇ、本当になんでもいいんだな?』

『もちろん。わたしに出来ることならね』

『……んで、期限は?』

『高校卒業まで』

『はっ、面白え。逃げるんじゃねえぞ』

『アンタこそね、凛太郎』


 当事者であるはずの僕を無視して無茶苦茶な約束が交わされていく。一応僕も抗議の声を上げてはいるんだけれど、二人の耳には僕の声なんて届いていないみたいだ。


『んじゃあな、アンリ。づらのかき方ぐらいは練習しておけよ。意味のねえ時間の使い方よりは、よっぽど有意義な過ごし方だろうからな』

『あは、知ってる? 起きてるときの寝言ねごとって、戯言たわごとって言うらしいよ?』

『お前こそ知らねえのか? 寝言ってのは寝てるから言えるんだぜ? 起きてるときに言えるのは、ただの事実だけさ』


 ひらひらと手を振りながら来栖くんはひとり奥へと進んでいく。そんな来栖くんにむかって右目の下まぶたを抑えて『べ〜、だ』と呟いていた彼女に僕は詰め寄って、


『な、なに勝手なこと言ってんのさ! 僕があの人に勝てるわけないだろ!」

『あのねェ……やりもしないうちに諦めないで。勝負はやってみないとわからないでしょ?』

『わかるよ! あの人はこの基地でいちばん強いんだ! それはきみの方がよくわかってるでしょ?!』

『あれ、おっかしいなァ? この基地でいちばん強いのって女の子じゃなかった? 噂ではすっごい美少女だって聞いたよ?』

『……そ、そりゃきみに比べたら強くはないかもだけど! でも僕と比べたら月とスッポン、いや太陽とゆで卵ぐらいの差があるんだ! たった二年かそこらで勝てるようになるわけないじゃないか!』

『ぷっ』


 僕の言葉を受けて、こらえきれないというふうに彼女は身体を震わせた。


『な、なんで笑うんだよ!』

『くく、太陽とゆで卵って、くふダメだっ、お腹いた~い』

『き、きみがいつも言ってるようなことじゃないか!』

『えーわたしそんな変な比喩ひゆ使わないよォ』


 太陽とゆで卵という比喩の是非について、彼女はしばらく揶揄からかってきたけれど、ふと真面目な顔をして、


『でもさ……ほんとにわかるわけないじゃない。未来のことなんて』


 ドキリとした音があせとなって僕の身体をこわばらせる。彼女は笑っていたけれど、うれいに満ちた瞳は僕に反論を言わせてはくれなかった。


『勝てるよ、ユキトくんなら』

『……だから、無理だよ』

『キミはもっと信じるべきだよ。可能性ってやつをさ』

『……可能性なんて、僕にはないよ』

『あるよ』


 伏し目がちになる僕に、彼女はもう一度告げてくる。


『あるよ。キミには』

『……』


 あくまでも僕に可能性があると主張する彼女は、まるで彼女こそがラプラスの悪魔であるかのように、既に確定した未来を覗き込んだ瞳を僕に向けていた。


 だけど、それは明らかに矛盾だった。


『……きみは矛盾してるよ』と、僕は言った。『一方では未来がわかるわけないって言いながら、一方では僕には可能性があるって言う。そんなの、おかしいじゃないか。未来がわからないのなら、僕に可能性があるだなんてことを、そんなふうに断言できるはずがない』

『大丈夫。なにも矛盾しないよ』


 彼女は首をゆっくりと振って、 


『ユキトくん。可能性と未来は似ているけど、全然別のものなんだよ』

『……おなじだよ』

『ううん、違うよ。未来は未来としてあるだけだけど、可能性は未来を広げる力なんだ』

『……未来を、広げる力?』

『そう。だからね、ユキトくん。たとえ未来を否定したとしても、可能性を否定することにはならない。だって、可能性っていうのはさ、未来を広げる力であり、望む未来を掴むための力なんだから。どんなにキミがキミの未来を否定しても、キミの行き着く先を想像するのはわたしの自由でしょ?』


 最後に微笑んだ彼女の笑顔は眩しくて、僕はさらに俯いてしまう。


 詭弁だと思った。結局、彼女の主張は論点がズレていて、僕に可能性があるということを断言する根拠は何ひとつ示していなかった。


 可能性と未来についての彼女の言葉に含まれていた事実はたったひとつ。ただ彼女が何の根拠もなしに僕を信じているということだけだった。


 笑えるくらい単純な動機で行われる未来予知に、だから、僕はただ一言だけ告げる。


『……自信がないんだ、僕には』

『自信って、凛太郎に勝つ?』

『……それもあるけれど』と僕は泣きそうな顔で笑った。『少し違うんだ。僕は僕を信じられない。きみが僕を信じられるほどに、僕は自分のことを信じてはいないんだよ』


 彼女の信じる僕と、僕の信じる僕。


 そのふたつの間には、きっと太陽とゆで卵よりも大きなへだたりがあった。あるいはシリウスと松ぼっくりよりも大きな隔たりが。


『自分を信じられない、か……』


 彼女がこぼしたかすかな吐息といきに諦めをみた僕は愉悦ゆえつと失望とを同時に感じた。


 彼女を打ち負かしたという愉悦と、彼女でさえ僕を救ってはくれないことに対しての失望を。


 だけどそれは勘違いで、彼女は優しく僕を見ると、


『――なら、わたしを信じればいいよ』

『え……』

『キミが自分を信じられないって言うんならさ、わたしを信じればいい。キミを信じるわたしを、ね。どう? 簡単でしょ? なんたってわたしは天才だからね♪ 人を見る目はあるつもりだよ?』


 輝く瞳は吸い込まれそうなくらいに強く僕の目を射抜いていた。微塵も揺らがない声はまっすぐに僕の心を打って、そのまま何もかもを壊してくれそうだと僕は思った。


『……偶然だったんでしょ、僕を選んだのは』


 恥ずかしさから目をそむけて呟いた僕の言葉に、彼女は薄く笑って、


『運も良いみたいだね♪』

『……ずるい女だよ、きみは」

『あはは、知らなかったの? 女の子はね、きりの深い朝よりも男の子の心をまどわすものなんだよ♪』

『……やっぱり、変な喩えじゃないか』


 室内であるこの場所からは見えないけれど、それでも僕は空が見たくなって、頭上を仰ぎ見る。


 天井に透ける十二月の空は、きっと薄く絵の具を垂らしたみたいに澄んでいて、星のような柔らかな光で世界を照らしているのだ。


 冬の冷たい風に乗って渡り鳥が飛んでいる空。


 彼女の手を取れば、どこまでも自由に飛んでいけると信じた空。


 気がつくと、こぼれ落ちそうな熱に促されるままに、僕は呟いていた。


『……勝てるかな、本当に』

『絶対にね。わたしはそう信じてる』

『……そっか。なら、頑張ってみるよ』


 吐き出した白い息が天井に伸びる様子がまるで飛行機雲のように見えた。


 それから場面が移り変わり、ここが夢であることを僕は思い出す。ひどく苦しい感情に胸を締め付けられるのと同時に、ひどく温かい感情に溺れそうになった。


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